fgと日常


 fgたち<量産型女の子>たちは、高度に完成された機械なので、それ故に退屈な日常と向き合わざるを得ない。基本的に、fgたちは、生活に際しての様々な問題が黙ってても親機から流入するデータによって解決されるので、fgたちは、各種様々な問題に際し、自分で考え自分で行動する必要性がほとんどゼロに近い。その為、実際問題、現場では「そうしている」機体であっても、それは自分で考え自分で行動するというポーズを物語化する事により、人生にわざと負荷をかけて、充実した人生を自ら演出しているだけであり、しかも、その決定すら、親機の流したデータに基づく決定である事に、この生活の意味のなさが如実に現れて行く事になる。これにより、ここに量産型女の子たちの、機械の機械たる所以が見え、つまり、fgたち、親機とデータがつながっている機体は、その存在に何ら生産性がなく、世界の中で、彼女たちは大きく自らの存在意義の危機に遭遇していく事になる。これはつまり、何やっても生活が駆動しないものに存在する意義はありやなしや?というアイデンティティーの問題だ。

 が、もちろん、fgたち自身は、そんな問題には直面しない。危機の存在は、彼女たちの内に無く、メタ的に起こってるだけであり、fgはΩの修正パッチによって、メンタルの安定化が常に計られるので、問題があっても問題を認識できはしない。つまり、問題を認識してるのは、常にΩ。或いは、その他の親機たちのみである。これはこれでもちろん幸せな日々であるが、fgたちは、問題を認識でないので、問題への対処は、その親機の気まぐれ一つ、その事で自らの存在を断絶される可能性があり、実際それは、後にfg大戦となって、問題が表面化する事になったりもする。

 この生活に対して、「とりあえず」形だけでも、fgたちの存在を駆動させる為に用意されたステージは「学校」であった。この世界の住人、つまり、機械の女の子たちは学校に通う事によって、多くの人たちと出会い、周りの人たちと戯れ、それなりに退屈をやり過ごす生活を送れるようになる。つまり、これは、この量産型女の子たちの親機を超えた交流が、別の親機による別のデータに外的に触れる契機になった為、女の子たちの心が新たな情報に駆動していく事象がここに起こったのである。とりわけ、このデータの流動的な動きが加速していくのは、後発で登場した、修正パッチの施されない親機から流入するデータのない「断絶された存在」であるmgたちの存在からである。というのも、fgたち量産型機械は、彼女たちの存在によって、データを親機から貰うものだけでなく、その現場で多く生成され認識できる異質なものとして感知できるようになったからだ。これにより、現場においては、その生成されたデータの個別の拡散は著しくなり、その拡散(情報の偏在)により、機体の個性化は促され、やがて、これがfgたちの間に地位や敬意を創る結果につながる事となったのである。しかし、それは、ほとんどの機体が親機とつながっている状況下での駆け引きであるわけでもあり、同時にこの個性化は、単なる親機間の能力差を如実に生活に反映する結果ともなっていった。つまり、これにより、親機とつながってないmgたちの多くは、その情報量の低さから低能のレッテルを貼られ、劣等感にさいなまれ、むしろ個性化が彼女ら自らのアイデンティティーの危機を大きく促す事になっていってしまった。これにより、mgたちの多くは、やがて、登校拒否、引きこもり、アウトロー化などの分散行動を個別に起こす事になり、それはひいてはfg大戦の引き金、つまり、世界の秩序を大きく崩す大きな問題へと顕在化していく事になるのだ(しかし、それは#2以降でのお話)。

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