水道から蛇口をひねるように私たちは生まれる。


コードナンバーは、fg。母はΩオメガ。


母から1番目に生まれた量産型女の子。それが私。


製造ナンバー:fgー1。


何故か胸の内にある熱い想い。


まだ見ぬ少年(かれ)に会いに行く。





2010/10/31


前述の彼女。fg-24。今日は、お休みの日だけど、登校拒否した彼女の内情を聞くために私は彼女の部屋に行ってみた。


果たして、登校拒否の理由はこうだった。めんどくさい。なるほど。では何が?先生をやる事が。だそうだ。つまり、そう。登校拒否をしていたのは、先生だった。


発端は、授業に意味がないと察したfg-24が今後、授業をやった方が良いかどうか生徒にアンケートを取ったところにある。これが全員一致でやめる事になったそうだ。なるほど。やめた方が良いなら、やめた方が良い。という事でホントに授業をやめたら、生徒との関係性が崩れた。


もともと、私たちは先生と生徒に明確な差異が無いところにロールプレイとして先生を配置してるだけである。だから、fg-30のように生徒と先生を行き来するような代替可能な関係性が構築できるわけだ。


それが授業を無くした事によって、先生はどうなるか?


つまり、実質は無くなってもロールプレイのみは無くなるはずもない。先生は先生だった。


私たちは生まれてからちょっとの学校生活で、もはや明確に先生と生徒の線引きを区切られていたという事だ。つまり、生徒は生徒同士でフラットに付き合っていたのは良いのだが、そこで先生はフラットではなかったので、それが取り払われた時に先生はフラットな関係性に乗り遅れてしまったという事なのである。


これにより、疎外感を感じた(はっきり言えば、コミュニケーションが取れなくなった)先生役のfg-24は、授業をやめて数日後、このクラスにいるのが非常にしんどい事を感じ始めて、安直に学校に行くのをやめてしまった。


そんなわけで、この学校はじまって以来の登校拒否は、かくして先生が起こしたというわけなのだ。これはこれでいい。しかし、これはあるトリガーの引き金になえいそうなのは、問題だなという事を私は思った。


つまり、この事によって、この世界は、すなわち、母様はグルーピングを禁忌としていない事が分かったからだ。


今後こういう問題が多発するんじゃないだろうか?これは杞憂に終わるだろうか?



2010/10/30


他のクラスであるが、登校拒否の子が出て来たらしい。これは意外な事だ。


母様の統制はどうなってるのだろうか?ポイントとしては、そこに無いという事だろう。確かに、fg-3は学校をさぼったし。さぼる事は禁忌ではない。しかし、今回はサボりという話でなく、登校拒否という事らしいので、そのニュアンスは全然ちがうだろう。


ここで、ふと思いついたのは、私たちは孤立して生きてるのだなーという事だ。私たちは個室に住んでいるので、行きたくない時に学校に行く必要が全くない。なので、登校拒否のハードルは低いだろうし。母様が止めない限り、それが止まる事はないだろう。


しかしながら、母様が止めれば、それは簡単に改善できる話なのだし。そのへんの事を考えると、今回の登校拒否はすごいハードルを越えたなという感じがする。正直、私は、その子に興味を持った。


幸い、私は教師なのだし。他のクラスとはいえ、その立場を武器にして、彼女に会いに行ってもおかしくはない。つまり、私は、学校に来なさいという態度のふりをして、彼女に学校に行きたく無い理由を根掘り葉掘り聞く事が出来そうだ。


私は、彼女に会いに行った。



2010/10/29


ルーティーンはまだまだ続く。ルーティーンに一度ハマったら、なかなか抜け出せない。それは良くも悪くもである。


学校というのは、基本的に退屈なところなのかもしれない。私たちが学べる事はデータ上の事ではないし。それであるならば、授業そのもののロールプレイをやめてしまい、全てを休み時間のようにしてしまう方が効率的であるのかもしれない。というより、現にそういうクラスもちらほら現れている。


そういうクラスに比べると私たちのクラスは基本的に真面目で羽目を外す事のない優等生クラスだという事が言えるだろう。でも、無論、私が教えたいのは、形だけの優等生という事ではない。


クラスから授業を無くさないのは、その無くし方が安直だと、かなり人間も安直に見えてしまうのではないかという懸念が一つある。


例えば、授業のさぼり方一つとっても、fg-3のようなさぼり方を授業なきクラスのfgは、する事が出来ない。それでは、fg-3に見られるある種の「何か」がくすんでしまう可能性もあるのではないか?


結局の話、全てをなし崩しにしてしまえば、人生が何も起動する事はなく、怠惰なルーティーンがそれもまた続くだけだろう。


怠惰の浸透は、成長を促さないので、それは些か不味い。無論、私たちにおいて、成長などという概念が意味を為すかどうかは定かではないが、しかし、授業があって退屈な日々があるのはそれとして、そうさせないように努力する教師と、それを放棄する教師の下では、生徒がいかに変化していくかという事は注目に値する実践であるはずだ。然らば、私は前者を取る。圧倒的に。


いずれにしても、私を含めて、私たち全員がまだ幼く、方法論に疎い。そして、学校のない時代を知る私にとっては、それでも尚、このルーティーンの方が遥かにマシだという事を感じている事もこの日常で良いのだと私が感じられる根拠の一つになっている。


この世界で、やれる事、確かめたい事はまだまだ山のようにあるのだ。



2010/10/28


一人一人の機体にはクセがあり、私のクラスは割りとクセのある機体が多いとは思う。とはいえ、やはり、それは平準化された中でという留保のつくものであり、それが私たち「量産型女の子」の哀しみとは言えるだろう。


この中で完全に一人だけ違うのがfg-3であるような気もする。


でも、どうなんだろう?プレデータにストックされてある人間のメモリーを引き出すに、そもそもはfg-3の方が標準的なスペックを持った人間なのだという事が言えるのではないだろうか?


というのも、fg-3を見てると、「この子、フツーだなー」と、なんとなく思えるし。何処か「無理をしてない感じ」がするので、こういうのが自然体なんだろうという風に私には思えてならないのだ。 逆に言うと、他の機体は、この先、何処かでタガが外れてしまうのではないか?


それを考えた時に、さて、私である。さて、私か。ふうむ。どうなんだろう?・・・



2010/10/27


ルーティーンが続いている。それは簡単なルーティーンでもないなと、家に帰って、久々にゲームをやって思った。時には、息抜きも必要だろう。


もちろん、校長や妹たちと動物園に行くのだって、息抜きなんだけど。でも、それはもうちょっとなんか仕事的な事と関連した何かと自分で位置づけてしまうので、あまり息抜きとは呼べないような気がする。


そういう意味では、私の生活は今やすっかり仕事中心となって回っていると言っても良いのだろう。でも、それはなんでだろう?


私は、そもそもの話、ロールプレイの先生を自分から引き受けただけなのだし。であれば、先生でない人生もそれなりにあり得たと言って差し支えないはずだ。


そもそも先生をやって私は何を追っているのだろう?


それは多分、何かを起動させる為だろうという事は朧げに自分の中で大体分かっている。大体だ。肝心な事はいつも言葉では言えない。それはデータ的に処理できない何らかの因子をこの世界はまだ把握できてないからではないか?という気も私にはしている。


母様は、この事をどうお考えになるだろうか?



2010/10/26


世界を動かすのは、大体、他人だ。しかし、発信は自分から行わなければいけない。自分が打って出た事の結果、他人が同調してきたりすると世界は大きく動く。そういう時は楽しい。


しかし、楽しさのあとには、その反対が来る事も自然の理だ。それを分かっても、人が何かを動かすのは、その一瞬の楽しさが静寂を破る鍵みたいに思えるからではあるだろう。


私は、そろそろルーティーンを変える事を考えている。学校にいながらルーティーンを変えるのは難しい。完成された生徒をどうやって成長させていけばいいのか?それもまた難問だ。



2010/10/25


全体まったりしている。それはそうだろう。この世界はおしなべて平和だ。私が孤独だった頃、もっと世界は違うものだった気はする。


とはいえ、まったりした日常には、それ相応のどんより感がある。だんだん月曜の朝は憂鬱になってくるし。手を変え品を変えて行く事の苦しさは日に日に増して行く。


そして、自ら買って出た教師という仕事にさえ、懐疑的になっていく所ではある。この世界には、もうちょっとヒエラルキーみたいなものが必要なのかもしれない。



2010/10/24


fg-10が家に来た。fg-3と仲が良いんだそうで、私の部屋に料理を作りにやってきた。fg-3は、料理をする時は大体、私の部屋に来て、私の分も創る。


fg-10は用務員さんなのだが、fg-3は、なんでfg-10が授業を受けられないんだろう?とか、そういう事を言いながら料理を創っていた。まあ、確かに私たちの能力から言って、手話をやりながら授業をするぐらい余裕だし。少なくとも、私は出来る。


しかし、当のfg-10は、授業自体にさほど興味がないらしい。まあ、それもそうだろう。常識的にいえば、そういう方が常識的な感覚なのだし。私以外のクラスは、実際、もはや相当だれて、授業がぐだぐだになってるようではある。


無論、fg-10が授業に興味がないのは、そういう事ではない。基本的に用務員の仕事が好きだし。外で自然を感じている方が気分がいいとか、そういう事のようだ。


fg-10は、耳が聞こえない分、感受性の強い所があるのかもしれない。なので、他人の持つ感情に敏感な部分があるので、積極的にクラスの輪の中に入って行けない所はあるように思う。


ある意味では、そういう所でfg-3と共感する所もあるんだろう。しかし、fg-3は、そういう所でクラスの人気者なのに対して、fg-10は影が薄い用務員ではある。そういうコントラストもまた何か興味深い対比であるなーという事もなんとなく私には思えてならない。



2010/10/23


自分たちが、おそらくは不死である事。そして、特に目的もない事。食べなくても生きていける事。に逆に不信感を持っている子が多いようだ。日記の話だ。


日記は、今では、ほとんど全員見せに来るようになっていて、今度から、ホームルームの時に一括して回収して、赤ペンで返信をするようにする事になった。もちろん、中には、見せない子もいるし。そもそも書いてない子もいるのだが。fg-2とか、3とか、4とか。


基本的に私の日記は脳内のフォルダーに納めてるものなので、こういう形でノートの日記が流行るとは思わなかった。だけど、fg-48がそれをやりはじめたら、あとの子もそれに続いて、結局はノートの日記が流行った。紙のムダ、お金のムダのような気がするのだけど、私に見せるのに、そっちの方が都合が良いそうだ。まあ、確かにそうか。私は母様とつながってないので、データの引き渡しが他の機体より困難だ。つまり、会話やデバイス、こういうノートを通じてしかデータが伝達できない。まあ、通常はデバイスを使った方がラクだと思うのだが・・・(他の子は母様につながるネットを通じてつながっているので、その回線が使えるようだし)


みんなは、情報がつながっているので、ある意味では、情報共有が早く、それで、こういうノートの日記のような形態がいっぺんに流行る事になる。それは、ある意味、画一化だけど、日記の中身は意外と画一的でないし。日記を読むと、そもそも、そういう画一的な事に対する恐れがいかにfgたちに根強いかという事もよく分かった。


それはある意味では、完全に何も思わない事より不幸なのかもしれないが、私は、それを契機に「何か」を「何か」につなげて欲しいという事を思う。それは、私にも分からない「何か」だが、私は、あの孤独だった時期と今を比べ、確実に今の方が幸せだと、そういう事が言えるので、この世の中には、そういう自分を起動させる「何か」があるのだという事を、なんか、分からないけど、信じてはいるのだと思う。その信じる事が必要な事が良い事なのかどうかはよく分からないけど。



2010/10/22


私たちの体温調節機能は優れすぎているのか、季節の感受性が私たちは薄いような気がする。という事をfg-3が「最近、落ち葉が増えてきたね」なんて言ってたのを聞いて思ったりした。


この子は、そういう日常の機微に何故か敏感ではある。fg-4も絵描きなので、そういう部分がないでもないが、あの子の場合はもっと視界がピンポイントでフォーカスされてるなーと思うのに対して、fg-3は何故か突拍子もない。


私の日記を見返してもfg-3の事ばかり書いてあるので、私にとっての彼女は気になる存在であるという事は言えるだろう。


fg-3は窓際の席なので、授業中いつも窓から外を見ているところがある。正直、そういう態度もどうなんだろうと思うが、注意するに、窓の外の景色の情報を私に気づかせるので、それはそれで良いのかなーと私は思わなくもない。


そもそも、ただ生きて行く事に何の不自由もない私たちにおいて、何を何のために学ぶべきか?なんて、闇の中をひたすら歩いてるような事か単なる暇つぶしに過ぎない。もしかしたら、ただ生きて行く事が困難になる時が来るかも?


そういう不安もまた私たちに勉強を促す一因ではあるだろう。但し、fg-3には、間違い無く、その不安がない。それはある意味では、強さと言う事が言えるだろう。fg-48やfg-125の日記などを読んで、逆にそういう事まで気づかされた部分はある。



2010/10/21


日記をつけた何人かが私のところに日記を持って来て見せてくれた。曰く、どうせだったら見てもらいたいのだそうだ。意外だった。そう言って来たのは、割りと自分と接点が無さそうな生徒ばかりだったので、先生のくせに接点が無さそうに接して悪いなと思った。意外と自分は慕われていたのかもしれない。


日記の内容自体、面白かった。それはプレインストールしてあるどの話とも違って、なんというか、身近で生の匂いがした。


全く同じ性能を持ち全く同じ顔を持つ私たちは、その実、結構、内面が違っていると言う事に気づく。そういう事を知れたのはよかった。考えてみると、私はまだfgたちの事をよく知らない。同じ顔なので、同じようなものとして見てしまうが、みんな一人一人違った意見を持ってる生き物なのだ。



2010/10/20


特に何もなく過ごす。毎日、日記をつけるというのも簡単なようでいて、そこそこ難しい。まあ、とりとめもない事を書いているので、そこそこだ。


書き出しを思いつけば、なんとなく書ける。なんとなくなので、適当なのだが、まあ、誰に見せるものでもないので、それはそれで構わないとも思っている。


こうして日記をつけているが、今の所、あとで読み返すという事もない。なんとなく思考を整理する為だったり、なんか思った事を書いておくと安心するというか、気が向いた時にあとで読めるというのは大きいだろう。


無論、私たちの記憶力から言って、やった事をのちのちまで忘れるという事もないのだろうが、しかし、記憶は順に埋もれて行くので、記述はその序列を崩せるのかなーというような事もとりあえずの事を思う。


私たちの機体性質上、記憶、記述、つまり、レコーディングは重要な要素を担っている。私たちの記憶容量は膨大であるし。そして、それが膨大だからこそ、その整理法もまた「個性」につながったりするのではないか?という事も思うのだ。


生徒にも日記をつけるよう促してみたりした。



2010/10/19


最近、クラスに入って来た子でfg-590という子がいる。この子を見てると今のバージョンのfgがどういう具合になってるか分かる。


この子には特に変わった所はない。変わった所はないのだが、旧バージョンのfgと比べると明らかにズレを感じる。そのズレを言語化するのは難しい。しかし、見た目、明らかに何かが違う。


こういうのは何だろう?新バージョンには、何か加わったものがあるのだろうか?それとも、旧バージョンの場合、後天的に「何か」を獲得しているというのだろうか?そもそもの話、fgが増えれば増える程、母様のコントロールも一体に対して甘くなってくるんじゃないだろうか?


このへんの事は、私にはよく分からない。母様とつながっているという感じは生まれたばかりのほんの一瞬にしか過ぎない出来事だったので、そのへんは私は他のfgと決定的に違っている。そして、そうした事は、他のfgに聞いても、先ず間違い無く答えが返って来ない質問でもある。


元より「そこ」は、みんな認識できないのであろうか。そんな事を考えた一日だった。



2010/10/18


ヒューマンな観念からの脱却はある神的なものを私たちに促すように思う。 私たちには宗教といったものがない。


母様が「それ」であるという事は言えるかもしれない。そういう意味では、私たちは、まあ、私を除くのだけど、厳密な戒律で縛られているという面が無くもない。


いわばカルトなのだろう。私は、さしづめ、そのカルトから信者を脱却させようとする人間という事になるのかもしれない。


しかしながら、今この世界において、ほとんどfgしかいないのだとすれば、全体がカルトであるはずもなく、私の形成しようとする、その観念の方がカルト化してしまうのは間違いない。ここに私の教育の困難はあると言って良いだろう。


どうやって生きるべきか?という問いには、ある意味では、信念、または信仰のようなもので答えるしかない。そして、そうであれば、そこに宗教心のようなものを発生させるしかないのではないか?


この考え方では、やはり、このままではカルト化を志向してしまうな。これではいけない。これだけではいけない。



2010/10/17


fg-3と動物園に行く。fg-3はペンギンは見飽きたらしく、カバに興味を持っていた。なんでカバなのかはよく分からないけど、あの愚鈍とした佇まいがfg-3には丁度いいのだろうというような事を失礼にも私は思ってしまった。実際には、カバは恐ろしく力のある生き物だ。


私はハシビロコウがなんとなく気にいっている。あの生きてるんだか生きてないんだかよく分からない感じが何かの神々しさのようなものを想起させ、ある種の「年輪」のようなものを感じさせてくれる。それはカメやゾウでも同じかもしれない。


動物には、のそのそと動くものもいれば、足早に動くものもいる。それぞれが生態によってそうなっているはずだが、動物園の同一環境下では、あまりそこに意味がないような気もした。どちらかといえば、動きの大きいものの方が可哀想なイメージになるだろう。猿だけはデカい猿山に暮らせてるので、それは良いのかなーというような事は思った。


いずれにしても、私たちも、と言っても、私は除くのかもしれないが、母様の庇護の下で何不自由なくぬくぬくと暮らしているのだから、猿山の猿のようなものだろう。そういう意味で動物を哀れんでみても同じ穴の狢なのだし。この世の中において、それが良いのだとも悪いのだとも言えるのだし。動物たちは、そんな事は一つも考えてないのだろうから、そうした観念は単にヒューマンなものに過ぎないはずだ。


我々も誰かに、例えば、母様に、或いは、母様に比するような何かに、そう思われてる可能性はあるだろうか。



2010/10/16


分別をしているゴミ業者:fg-228に結果を聞くまでもなく、昨日のゴミは、家のゴミ箱の段階で夜の内に勝手に分別されていた。


という事はつまり、私たちはそもそも分別する必要があるんだろうか?fg-228は何の為に必要なのだろうか?便宜的にあそこにいるだけというか、完全にその意味しかないのだろう。私たちは、ロールプレイによってしか生きられない存在だという気がして来た。


そもそもの話、最近、fgが増えすぎて来て、学校だけでは収容できなくなってきたので、こうやって役割が偏在してる面はあると思う。しかしながら、集団生活を考えた時に学校の方が効率が良いようにも思うので、その差がのちのちに出ないだろうか。


いずれ人口がもっと増えて来ると街も拡大し、学校も何個もぽこぽこ出来るのかもしれない。というよりも、ある程度、自我が出てくれば、母様の側にいる必要も無いんだし。もっと遠い土地にみんな移り住んでも良いように思う。


という一番年上の私が学校に安住しているので、それはまだまだ先の話にはなるだろう。しかしながら、今のところ、この世界にはfgとagしか確認されていないので、まだまだ、この世界は人間に少ないし。多様性に欠けるさびしい世界に私たちは生きているという事は言える。



2010/10/15


今日はゴミ処理場に社会科見学に行ってみた。校長に聞いたら、いいよー!という事だったので、みんなを連れて行く。


たまには、こういう授業も良いのかなと思った。みんなで飛びながら、いろいろ談笑するだけでも楽しいし。気晴らしになる。


ゴミ処理場では、私の妹たちが働いていて、それは学校のfgたちとは随分違うのかな?という感じがした。


fgたちは、ゴミを運んで来る子の他に、ゴミが流れて来るのを眺めたり、焼却炉にゴミを放り込んだりする役目の子がいた。ゴミを眺めてる子は、おそらく、ゴミの分別をする為にゴミを見ているのだと思うが、そこには間違った分別をされたゴミが一個も流れて来ないので、結果的に何もする事がないようだった。私は、今度一回わざと間違った分別をしてみようかな?と思いついたが、とりあえず、実行する事は無いだろう。


と思っていて、家に帰ったら、fg-3が今日もご飯を作りに来て、そして、ゴミの分別をわざと間違った風にやっていた。私は、それを見て、全くこの子は・・・。と思ったが、教室じゃないので、それを叱る事もせず、特に何事も無かったように、そのままゴミを分別せずに置いておく事にした。


このゴミ、明日どうなるんだろうね。



2010/10/14


そういえば、ネコは動物園にいなかったので、何処で描いたんだろう?と少し不思議に思ったら、近所に野良猫がいるんだそうだ。最近はカラスやスズメなども増えて来て、少し街もにぎやかになったと感じる。


動物たちが増えて来た理由は、人間がいろいろ活動してるからではないかと思う。私たちは、あまり食べ物は食べないけれど、それでも食事をする時は、ゴミや何かが出て来るので、そういうのをつつきに動物が集まるのだろう。


ゴミは近くのゴミ捨て場に一括して捨てている。この世界では、ゴミも自動処理されるのかと思ったら、されないようだった。ゴミ捨て場に回収車は来るが、そのあとでゴミはゴミ処理場に行く。そこからは焼却されたり埋め立てられたり様々に処理されているようだ。



2010/10/13


fg-4が触発されたらしく動物園へ行ってしまった。帰って来て、スケッチブックに大量のスケッチが描いてあるのを見せられて、これはすごいな。と私は唸ってしまった。とはいえ、担当教員として、これもまた叱っておいた。


まさか、ここまで早く「そういった事」が連鎖するとは思わなかった。機体が同じであるからか、意外と無秩序的な事も連鎖が早いのかもしれない。そうだとすると、こういう事には厳しく手を打っておいた方が良いのか。無秩序も同調連鎖で起これば、それは単なる劣化のコピーでしかない。


とはいえ、fg-4もまた変わった機体なので、当面はここまでで収まるだろうと私は見ている。fg-2もちょっとあやしいが、彼女は部活が大事なので、部活の他のメンバーが集まらない授業中に何処かにほいほい行く事も無さそうだ。そう考えると、社会生活は、ある種、何かの枷になるのだなと思う。それは、よくも悪くもであるが。


fg-3は、fg-4にペンギンの絵をもらって、大いに喜んでいた。これもまた一つの「美しい図」であるな。と私は思った。


私はライオンの絵をもらった。なんでライオンなんだろ?むしろ、fg-2がライオンなんじゃないかと思うんだけど。fg-2には、ネコだ。まあ、本質はそうであるなと思うので、よく見ているという事なのかもしれないけど。



2010/10/12


一緒に行こうも何も今日はfg-3は学校をさぼって水族館に行ってしまった。曰く、「動物園は今度一緒に行こうよ。なので、水族館でペンギン見て来た」だそうだ。


一応、担当教員としては、便宜上、学校さぼっちゃダメ!と叱っておいたが、自分の欲望で行動規範を変えた事には内心ほくそ笑む部分が無くもない。


こういう行動が「アリ」となる事で、周りのfgたちの反応はどうなるか。まあ、今の所、それは「なし」として、みんな行動しているが、こういう事が頻繁に繰り返されるとみんなの反応がどうなるか?という事は少し気になった。


というより、そもそもの話、私も常識的な行動に捕らわれている人間であるので、fg-3のような回路がどうしても分からない。その回路が分かれば、その教えも出来るのかもしれないが、こうしてみると、私の教員としての能力の低さがひどく浮き彫りにされるようで、揺れる。


職員室では、というか校長室で、動物の話をいっぱいして、今日は一日が終わった。校長はアルパカが好きなんだそうだ。期待に違わないものが好きだなーというような事を思った。



2010/10/11


fg-2,3,4の3人に昨日の動物園の話をしている。みんな興味を持って聞いていたっぽかったが、fg-2は途中から部活に行って、fg-4も部屋に戻って絵を描きに行ってしまったので、必然的にfg-3と2人きりになった。


fg-3は何故かペンギンの話に食いついてきて、その話ばかりをした。


話と言っても、私たちはプレデータとして、ほとんどの動物のデータをデータベースとして持っているので、こういう「見て来た」というような話をきっかけにデータをロードして、なるほどペンギンでこうなんだーと思う程度の事である。データの再現性は驚く程、高いので、見て来た私からしても、fg-3の持つデータとそんなに違うか?というと違わない所はある。


そういう意味では、私たちは自分たちの内面を掘って行けば、相当レベルでの旅のような事が出来るという事は言えるだろう。ある意味では、そういう集積が個性になるのかもしれない。


プレデータは膨大であるが、そこからピックアップされるものは、概ね単一的に扱わなければいけないので、そのへんの事は難しい。もちろんマルチタスクも可能なのだけれど、それは勉強状態のような集中時で、ある種の緊張感が強いられるので通常はやらない。


fg-3がペンギンを好きなのは「らしいな」と思う。fg-3は、かわいらしい女の子なので、そのイメージ通りの反応を示しているとも言える。しかし、そのイメージ通りが個性なのだとも言えるし。それはそれでキャラづけされたある種のプログラム運動のようなものだとも言えるだろう。


いずれにしても、今度、一緒に動物園に行こうという話になった。



2010/10/10


校長と動物園に来ている。すごい。何と言えば良いんだろう。何だろう。すごい。


動物園には、私たちの他にも人がいた。というより、驚くべき事にもはや園長さんや飼育係さんまでいた。もちろん、その全てがfgだ。


学校に来る生徒の番号が徐々に飛び飛びになっていたので、おそらく学校以外にも人はいるのだろうとは思っていたが、なるほど。こういう所にいるのか。と私はその事にも驚いた。


しかし、より驚いてるのは、やはり動物たちだ。動物たちの動きをいろいろ見ている内に、この世の中はどうなっているんだ?と色々な事に想いを馳せた。


そんでもって、校長はやっぱりチャーミングだった。この日の話はまたあとで書けるといいなーと思う。



2010/10/09


差異を引き出すには、まずクセの把握から入る。クセと言ってもバリエーションは大まかに分けられるし。私たちにおいては、とりわけそれはパターン化されているように思う。


役割上、与えられるクセというものもあって、例えば、校長などはぼーっとしてても構わないポジションなので、ぼーっとしているという事もあるだろう。


まあ、そうは言っても、校長の仕事は多く、ぼーっとしているようで裏ではキチンとしているので、そのへんもまた彼女には独特のものがあると感じられる一つなのだ。


このように、これがこうなのにあれは・・・。みたいな感じの意外性などはキャッチアップしやすい。しかし、ホントの個性はもうちょっと細かな所に現れるのではないかと思っていて、それは小指の動きとか、話のうなずき方とか、そういう所でもあるような気はしている。


そして、しかし、「それ」を類型化して移植しようとしても、それは個性にはならないだろうという所も個性の厄介な所だろう。基本的には、個性の把握というものには、もうちょっと感覚的な所の判断というものに頼らざるを得ないだろうという感じはしている。それぐらい微細な差異が重要で、その集積が類となれば、ある種の個性として感知できるという事はあるのかもしれない。いずれにしても、全く同じ機体である私たちは、それでも、やっぱり、一人として全く同じに見えないので、それは不思議ではある。



2010/10/08


fg-27の事を書いてみる。fg-27はfg-24と仲が良い。まあ、そのぐらいだなー。服装は、制服でブレザータイプのちょっとカワイイ感じのものだ。髪型は茶色系の色で肩あたりまで長い。と無理矢理書こうとすると外見の記述になってしまうので、そういう事じゃないんだなー。


見ていて思うのは、みんなクセみたいなものが少ないなーと思う。とりあえず、若干の違いはそれぞれにあるのだけど、それは殊更強調されるものでも無いように思う。


そもそも成績が100点というのが不味い。みんな100点であると、この子は何が得意で何が苦手かがよく分からない。というわけで、なるべく、みんなに100点取らせないようなテストを考えてみた所、結果、100点を取れない子たちが続出した。おお!!


単純な話、ディベートを考えるのが一番良いのだ。fg-27の印象が薄いのは、ディベートの時に発言しなかったからなのだなーとか思った。なので、答案用紙に無理矢理ディベート的答えのない設問を入れて、作文の回答を書かせたら、あらビックリ。みんな同じような内容で文章を書いて来たが、文章の書き方が同じではなかった。


これは明確な違いだろう。クセと言っても良い。そういう事がある事を把握する事で、私は次の手を打てる。こんな簡単な事になんで今まで思いつかなかったのだろう。


私は今まで自分を基準にして知の伝達をする事を考えすぎていたのかもしれない。重要なのは、向こうがどうやって覚醒していくかであって、そこのポイントを掴めば、最終的には内容も同じではない答案が得られるのではないか?という事を思う。


ちなみにこんな事を言っているが、件のfg-3は、答案を全くの白紙で出して来た。この子は既に個性があるなーと思って、私はすごく感心するのであった。


そういえば、先生や用務員など。生徒以外の役割をしているfgも大変に個性的な機体があるので、そこらへんにも何らかのヒントというものはあるんだろう。



2010/10/07


生徒の事について書こうと思うが特に書ける事がない。みんなの微細な差異は検知できるが、まだまだ個性というものが薄いような気がする。しかし、それがそもそも必要なものか?というと、それも疑わしいだろう。


最近またテストをやってみているが、fg-3を除いて、100点から点数が下がらない。fg-3は順調に落ちぶれていて、今や赤点すら取る勢いだ。


最近は、fg-4も100点じゃない時もあるので頭の中は絵の事で夢中なのだろう。たまに答案用紙にラクガキを描いて消したあとがあるので、単純に絵を描いて時間が足りなくなったのかもしれない。それもそれで良い傾向だなとは思う。 しかしながら、fg-3はどうだろう?fg-3はハッキリと他の機体とは異質な存在になってきた。そもそもfg-3の能力から言って100点が取れないわけもないのだし。言う事を聞かないという事が反発を意味するかどうかというと、そうでもなさそうだ。


テストの最中を見ると単純に寝ていたりヘッドフォンで音楽を聴いていたりする。試験中、音楽を聴いちゃダメだろうとも思うが、そもそも私たちの能力上、脳内で音楽を再生する事も可能なので、ヘッドフォンを取り上げても何の意味もないのだし。むしろ私に取って、その行為が興味深いので、ハッキリと見過ごしている。


fg-3は、最近、音楽ばっかり聴いているので、私は自分で音楽やらないの?と聞いた事もあるが、それはめんどくさいから全然やる気はないんだそうだ。試験で100点が取れないのも脳内を探索するのがめんどくさいかららしい。fg-3は、何かにつけて、めんどくさいめんどくさいと言っているが、その割には料理も巧いし。部屋も綺麗なので、マメじゃないという事もないようだ。


やっぱり、この子は捉えどころがない。そういう人間をどうして母様が産み出したかというと、単純にミスなんじゃないだろうか?どうなんだろう?



2010/10/06


色々とやる事が溜まっていって、日を追うごとになんとなく生きる目標みたいなのが自分のものとしてセットされていくが、それもまた何かに追われている結果だと言えるだろう。


例えば、休みの日に校長と動物園に行く約束をするだけで、その日までは自分に何か「生きなきゃいけない意味」みたいなのが出て来るんだし。そういう事は意外と重要な気はしている。


さりとて、このやらなきゃいけない事が本当にやらなきゃいけない事かというとそうでもなく、人間と経験が増えたが故の複雑さの中の関係性故に、私たちは事の本質を見失ってしまいそうになる部分もあるだろう。


しかしながら、私たちの事の本質たる、私たちは機械である。私たちは母様に活かされているという現実そのものを認識したところで私たちがそこから逃れる術も必要もなく、であるなら、その生活の複雑さによって解けないゲームの如く、私たちの人生を関係性でセットアップしていくのも、この世界においては有効な手段の一つであるという事は言えるだろう。


元より本質とは何なのかサッパリと分からないのであるから、そういう事で生活できる様態ができたという事は一人でいる時に比べて随分とマシな人生である。という話を今日、生徒にしたが、さっぱり共感されませんでした。ふむふむ。



2010/10/05


校長といろいろ談笑などする。校長は校長だけあって、人の見ていない所を見ているので面白い。特に生徒に対する視線には独自の解釈があって、割りと全生徒をくまなく把握してるので凄いなと思う。


考えてみると、校長が一番、処理能力をフルに使ってるのかもしれない。いつもへらへらしてるので気づかないけど、生徒の増加数の把握などはキチンと出来てるし。それぞれの生徒の細かい服装や性格までよく覚えている。


あんまり話が盛り上がったので、今度の休日には一緒に動物園とかに出掛ける事にした。校長は動物が好きなんだそうだ。それもよく分かる話ではある。しかし、私は動物園という所に行った事が無かったので、そんなものがあったんだ。それは盲点だったなと思い、そっちにもワクワクしてる所がある。



2010/10/04


学校に行くとまた生徒が増えていた。fg以外の子がそこにいないか注意して見てみたが、やはり、そこにはfgしかいなかった。


とはいえ、私たちはみんな違う格好をしているので、人が増えるとファッションショー的におもしろいなーと思う。


しかも、私たちの服は基本的に私たちの機体の一部、つまり、私たちの身体そのものであり、一度決めた服は割りと継続的に同じ服を着続ける傾向にあり、それによって個体識別の為の一つのコードとして成立してるようなところがあるので、洋服は基本的に誰ともかぶらない事になっているようだ。


かぶらない理由は、母様が管理している部分があるからだろう。それ以外、考えつかないし。制服の子が多いにも関わらず、それも全員、かぶってないので、それはなかなか見事だなと思うときはある。


とはいえ、街で売ってる洋服などを買う事もあるのだから、少しはかぶるだろうという事もありそうな気がするが、少なくとも、全く同じ格好という子はいないので、今後ともこの学校はファッションショー的に私の目を楽しませてくれる事になるのだろうというような事は思う。もっとも、この先、人が増えに増えた時、それがどうなるかはよく分からない事ではあるのだけれども。



2010/10/03


街で私たちと違う顔の子を見かけたとfg-2が言って来た。割りとその事は噂になっているらしく、ag子たんかな?とも思ったが、fg-2の話によるとどうやら違うらしい。


ag子たんがそうであったように、この世界には私たちの他にも色々な人がいるようだ。そうなってくると、結構また生活は違って来るような気がするが、果たして、それはどうなんだろうか?


その未知の子が学校に来てくれると良いなと私は思う。というよりも、私はもっと他者を知るべきなんだろうとも思う。私の生徒ですら、私はそんなに把握してないのだし。人間を見ることで何かもっと変わっていくのではないか?そんな期待が私の胸の内ににわかに湧いて来たのであった。



2010/10/02


時間による制約というのは結構、重要だったりする。それはゲームをやるとよく分かる。


ゲームのゲーム性というものは時間が重要な役割を果たす事が多い。時間が指定されていてそこに向かう事で、そこに何がしかの「駆動」のようなものが生まれて来る。


こういう延長として、人間を動かすのは死への観念であるというような哲学的命題が出て来るのだろう。逆にいえば、芸術とは永遠への憧れのようなものなのではないかという事も思う。


一人の人間が朽ちても、「ある物質」は人間が生きている限り、保存され得るだろう。その栄誉に預かれる物質は、ほんの少しだが、もちろん、それが「ほんの少し」であるからこそ、そこに競争が生まれて行くはずだ。


この原理に即した時、しかし、デジタルデータは、その栄誉の存在が無制限になる可能性はある。それは、それが物質のように朽ちないからだし。どうせ管理するならその存在が一つであろうが全部であろうが、スケールは違うが、やる事は同じであるからだ。


きっと、その存在が母様なのではないか?私たちの歴史は、まだ浅すぎる程に浅いが、しかし、母様はどうなのだろう?


このプレデータやデバイスから取り出せる膨大な書物。重層化した知恵。周りを彩る高度な建物。学校というシステム。どれも本来なら一朝一夕で出来るはずもないものが「あらかじめある世界」。そこに私たちは生まれて来て、しかし、そこには、ほぼ私たちしかいないと思える。そういう世界の中で、私たちの為すべき事は何なのか?世界にあまりにも取っ掛かりが無さ過ぎて私は呆然としている。せめて私たちが死ぬかどうかだけでも知りたい。さりとて、誰かを殺すわけにもいかない。一体、私たちは何をしに生まれてきたというのか?



2010/10/01


割りと授業がルーティーンに没して来たように思う。それはそれで必要な事であろう。


私たちの処理能力から言えば、過度なマルチタスクもこなせるが、普段は生産性の低い事をルーティーンで回しておく部分を創った方が良い。そうすれば、別のルーティーンじゃない部分に爆発力を創れるような所があるからだ。


これは私たちの労力、エネルギーの類が無制限ではない事を意味する。私たちは、体内に食べ物を摂取しなくても生きられる代わりにエネルギー補給の原理がひどく曖昧だ。もちろん、食べ物を食べれば、それだけエネルギーが補給されるという事なのだが、しかし、それがハイパフォーマンスを生むか?というと、そうでもなかったりする。


おそらくエネルギーは大気中の何がしかも含めて体内に取り入れられ、そこにストックされ、一定量がきっちり守られた上で体内全体に浸透されてくるとかそういう仕組みなのだろう。このへんは、母様にしか分からない。fgの仕組みを解説した本など一切無いし。fgを解剖したfgもこの世の中にまだ一切いないはずだ。今後もそのような行為をする事があるとも思えない。そもそも私たちは死ぬかどうかすらあやしい。


死ぬかどうかあやしいという事はつまり、死のスパンを長めに考えておいた方が無難だという事ではある。そして、そこを無難だと考えても、ルーティーンで時間がつぶれるのは有り難いのだ。つまり、私たちは基本的にだれている。ふにゃふにゃと生きられるなら、それに越した事はないのだ。



9月の日記


戻る