水道から蛇口をひねるように私たちは生まれる。


コードナンバーは、fg。母はΩオメガ。


母から1番目に生まれた量産型女の子。それが私。


製造ナンバー:fgー1。


何故か胸の内にある熱い想い。


まだ見ぬ少年(かれ)に会いに行く。





2010/9/30


ロールプレイとしての授業に飽き出したのか、先生役のfgの中で先生を降りてしまい、授業が成立してないクラスもあるようだった。


そういうfgは、職員室にも来てないし。校長先生もそれに対して特に何も言ってない。私も言う気はない。どのみち、そうした行動も母様に規定されてのものかもしれないし。そうだとすると、それはそれで意味のある事のようにも思うからだ。我々は(とはいえ私をのぞいて)、常に母様に軌道修正され得る存在でしかない。


自分の授業は、自分のクラスで精一杯だ。カリキュラムに沿ってやる勉強が半分であとはアレンジを付け加える。今日はヴィゴツキーの芸術心理学などを使ってディベートを行った。ディベートは生徒の参加率の高い授業だ。とはいえ、fg-3のようにぼーっと窓を眺めてる生徒もいる。


私自身、ディベートは好きな授業だが、いかんせん、授業の内容は母様から消されてる確率が高いように思う。必要ないという事だろうか。もしくは、母様に記憶を消されてるのではなく、ホントに覚えてないだけかもしれない。そのへんのところは良くわからないし。特に確認もしていない。


いずれにせよ、母様がいる限り、この生徒たちは母様を最大の教師にするよりないのだから、ここでモノを教える事がいかに困難かという事を思い知らされる。しかし、そもそも、私だって、母様を最大の教師にするよりないのだ。



2010/9/29


fg-4の絵を見せてもらった。新作だ。というよりも、fg-4はこのところ量産態勢に入っていて、8号ぐらいの描き殴ったような抽象画をよく描いている。


そのどれもがどれも良い。原理は分からない。いや、構図やその他。色彩の理論などはキチンとプレデータにあるので、その意味においては分かる。この絵は、そんなに理論値からはみ出してないし。スキル的にも高いものがある。しかし、それは機械故だから当然だ。私が描いても、そこまでは出来る。出来ていた。しかし、fg-4の「それ」は私のと全く違う。私のはよくない。fg-4のは良い。なんで?絵が微妙に違うからだ。その差異は私たちの強力なセンサーなら感知できる。しかし、それはほんのわずかでしかない微妙な差異だ。


この微妙な差異にこれほどまでも影響があるものかと、その事に私は驚愕を覚える。うまい所にうまく小さな差異が創られている。その事にこれほどの意味があるとは私はそんなこと思いもよらなかった。しかし、これは分かっていてもどうやっても自分には再現出来ないなと、その絵の前で素直にそう思ってしまうのも事実だ。差異は分かるが、そのポイントを把握できる原理は分からない。


fg-4曰く、これは「才能」なんだそうだ。そう自分で言っている。そもそもに「じゃあ、なんで私は絵を描くのですか?」とfg-4は、そう言って私を問いつめる。絵を描く事はスムーズに行う生活の結果なんだそうだ。


つまりは、そうだろう。fg-4は才能を母様から与えられた。つまりは、そうだ。じゃあ、待って。これ「才能」の仕業だとしたら、これはただの母様のプレインストールによる結果って事なの?ありえない。


しかし、そうなのだ。この「深い」ように見える「それ」は単純にそういう風にデータインプットして出て来ただけの産物に過ぎないのだ。つまりは、fg-4は母様に「絵が描けるように」プリセットされているだけなのだ。


これは本当にそうだろうか?その真相は分からない。


しかし、この事を考えるに私は本当に愕然とする。いや、fg-4がプリセットされてる事じゃない。そもそも私たちの「主体」とは何なのか?という事にだ。


私は随分深い泥沼に足を突っ込んでしまってる気がする。しかし、一度、足を突っ込んだからには、もうそこから抜け出せる事は無いだろう。進むしかない。もしくは、私が足を突っ込んだ事を忘れるしかない。


その選択肢の中で、当然、そこで私の性格上、「進む」を選ぶに決まっているのだ。しかし、それもそう。つまりは、それも母様のプリセットに過ぎないのではないか?という疑念。


これ以来、この問いが私の頭から離れない。fg-4の絵は、かくも難解な命題を私に呼び起こさせる触媒として機能してしまった。それが「絵」の力でもある。ある意味では、それを産み出せるfg-4が羨ましくてしょうがない。それもまた「世界」とのアクセスの一つの麗しい形だろう。



2010/9/28


fg-10を見ていたら、彼女が咳き込んでるのを発見した。私たちの機体耐久度から言って咳き込む事は珍しい。何でもない調子で一人コホンコホンとやるなら尚更だ。


私はfg-10に話しかけてみたが、彼女は何も答えてくれなかった。どうやら耳が聞こえないらしい。彼女は、あーあーと声を出しつつ手話を使い出し、その時、私が手話といったものを理解できる事に気づいた。


手話により幾つか会話した限りで言うと、というより、そもそも耳の聞こえないという事そのものがそうだが、彼女は色々と欠陥を抱えて暮らしているのではないかと思う。私はその事を知り、胸の奥がきゅーっとなって、なんだかそわそわした気持ちになってしまった。


この感情の正体は何だろう?


それは憐れみ?哀しみ?怒り?やるせなさ?同情的なそれ?


気持ちは整理できないが、しかし、私はそういう事でもないのではないかと一方で思うのだ。多分、私が彼女に反応するのは、彼女が私より「世界」にアクセスしているからではないのか?と思う。


彼女は日々、自分の実存に対して真剣に向き合わざるを得なかったのだろう。その事がおそらく他のあらゆる生徒より彼女を強くしている。その事で彼女は何らかの信念をその胸に抱く事が出来ている。それを私は知った。


しかし、遠く見る彼女は、やはり、私にも存在感が薄く見える。その事に気づく時、むしろ、その彼女の「儚さ」こそが世界とのアクセスであるのではないか?と私はそのように思うのだ。


しかし、彼女はそんな事を望んではいないだろう。それが更にこの世の中の複雑さを複雑なままに見せるものとして、私の目に何か言いようの無い感情を与えるのだ。それはfg-4の絵にも似たものかもしれない。 fg-4の才能はこうした世界観のようなものを紡いでいる。そう思った時、あの毎日毎晩、絵ばかり描いている彼女の底知れない魅力の一旦に気がつけたような気も同時にした。fg-4の絵がまた見たいなーと思う。



2010/9/27


少し停滞が起こってるのもかもしれない。学校の事だ。


私においても学校への力みがすっと抜けた感じがしていて、新しい発見が少なくなってるように思う。


元より私たちの洞察はセンサーの感度がよすぎて、物事の把握を適宜行いすぎてしまうという事はある。例えば、今日も生徒の何人かは増えていたが、それが同じ顔だという事もあるにせよ、その新しい個性を私たちは簡単に分解し把握してしまうので、そこで新鮮さがあまり学校に持ち込まれないといった事は確かにある。


これは、その個性の違いを私たちが適宜スキャンしてしまい、それを「情報として」自分の理解に分解してインプットしていく速度が早いからだろう。その「新しい人」すら周囲に同化してるものとして、差異を差異として認識してしまうが故に節度を持って周囲と馴染んで行く事が可能だという事だ。


全体、この学校はすぐに全体が調和してしまい、人が人に馴染んでしまうような所がある。それはそれで美徳だが、それだけだと、なんというか、人間が集まる事の意味が怠惰な意味しか持ち得ないのではないか?という事もある。


そんな時、一人のまるで周囲に馴染んでいないfgを発見したのであった。発見!!私のセンサーでも今の今までまるで気づかなかった程のその存在感。周囲との溶けこまなさ具合は異質だ。fg-10。番号から言って、彼女は最初からこの学校にいたのではないか?彼女はこの学校の用務員をやっていて、気づけば、校庭でよく見かけた記憶もあり、本来であれば、一番目立って認識されそうなポジションにいる子なのであった。彼女には何かある。そう思った私は次第に彼女に興味を持っていったのだった。



2010/9/26


今日は何もない平穏な一日だった。何も無い事が平穏に思えるのは、自分にとって随分な変化だなと思う。


人が周りに増えたことで明らかに自分の志向が変わって、いろいろと生活に潤いが出て来た気がする。


こういう穏やかな日がいつまでも続けばいいが、しかし、いつまでも続いてるとそれもまた苦になりそうだなーという事もちょっと思った。


この世の中で何が最善かというのは、本当によく分からない。しかし、私は教師としてその最善を追求していかなければなーという義務に何だか勝手に燃えているのだと思う。


それはそれでヤバいのではないか?と、その時、何かの安全弁のような観念が作動する。これは母様のプレデータやプレマインドセットとは違うものだろう。



2010/9/25


休みの日は暇だ。自分においては授業の準備やら何やらインプットやその確認と思索に充てる時間で、とりあえず、やり過ごしてはいるが、生徒の中には別段、休みでもそうでなくてもどっちでもいいといった風潮はある。元より、この学校。来たくなければ来なくても一向に構わないからだ。


fg-3は遅刻はするけれども、学校を休む事はないので、それは面白い。fg-3の趣味と言えるものは唯一買い物で、学校の帰りにはいつもスーパーに寄って生鮮食品を漁ってるそうだが、生鮮食品と言っても、もちろん、それは「あの」魚屋の魚のように品物が自動的に生鮮されていくオートマティックなものでしかない。


その意味で、この世界は通常の世界よりも複雑さが薄いのだろう。その複雑さの薄さがある意味では、この世界の生きやすさではあるし。同時に、この世界のつまらなさにもつながっている。


休みに旅に行く人は多い。fg-3もその例外に漏れず、休みの日にはいつも近所のスーパーではなく、割りと遠目の大型スーパーに買い物に行っている。


買い物はもちろん自分で飛んで行くわけであるが、大型スーパーでは、ケース買いなども多く、自分の手で持てなかったりバッグの中に入らなかったりするものが多いので、そういう場合は、そういうものも同時に飛ばして帰って来るので、その図は、なんというか、周りから見てて、面白い。というか、ああ、あの子、買い物行ったんだなー。ああいうもの買ったのだなーという事が丸分かりで、そのへんが興味深い。


特にfg-3は、もはや制服と白い買い物袋がセットのようなイメージになっていて、買い物袋に何も入ってない時でも、ドリンクのケースやら、ティッシュペーパーのまとめ買いやら、お米の袋買いなどを同時に飛ばしたりしてるので、なんだか、その姿は行商人のようだ。というより、実際。fg-3がお買い物に行く時には、クラスのみんなから結構、頼まれ事をして行ってるらしい。自分のものは何も買わずに帰る事もしばしばなんだそうだ。しかも、それは頼まれて仕方なくって感じでもなく、ホントに単純にお買い物が好きなんだろう。それもそれで一つの個性だと私は思う。



2010/9/24


母様から渡されたプレデータは膨大だとはいえ、それが世界の全てではもちろん無い。私でいえば、地図データは未整備なのだし。他にも、例えば、校長のふにゃふにゃした感じとかはデータに無い。


そこらへんが生きる上でのポイントといえばポイントだろう。生きる上での上昇ポイントと、それを見極める為のウィークポイントの発見は生きるにあたって割りと必要なもののように思える。


上昇ポイントに着目していけば、それは生きる糧となるんだし。例えば、それはfg-2のサッカーだったり、fg-4の絵だったりもするだろう。


個人的にスポーツは結果が明確な分、上昇も創りやすい気はするが、いかんせん元々のスペックはさして変わらない人間たちでサッカーをやった所で、その結果は運ではないか?という要素が強くなるのは否めないだろう。さすれば、上昇(に内包する上昇しなさも含む無慈悲)はやさぐれの対象となるような気もしてならない。


しかし、その中で練習して得た技術で差がつくとすれば、それは純粋に獲得した技術なのであり、その獲得こそが生の輝きを生むという事もあると思う。


してみると、やはり、私たちは他者との関わりの中で生きるものなのであり、そうなった時、しかし、私の「他者と関わってなかった経験」は、ある意味では他者への優越となり得るだろう。


自分の授業の癖として、自分の孤独なベースを経験としすぎてるのかもしれないという事に気づいた。それは単なる私自身の輝きの再確認しかないのではないだろうか?生徒が望むものは何か?どうやったら生徒に何かをセットアップできるか?母様でもないのに。


それはおそらく、そう簡単なものじゃないだろう。しかし、同時にそれも簡単じゃないからこそ、上昇のポイントが出来るのであり、その上昇こそが私に輝きを与えるのだという事も言えるし。その輝きこそを見せる事が一番の教育なのだという事も何となく私は、そういう答えを持って今のところ授業しているのである。



2010/9/23


とりたてて何も起こらないが毎日は進んでいる。所詮、私たちは管理された存在なので、何をやるにもはみ出す事は無い。強いてはみだす人間がいるとしたら私だけだ。


妹たちは退屈を覚える事が苦手らしい。より正確には退屈は覚えるが過度の退屈は母様からの因子の流入によってシャットされてしまうのだと思う。fg-3が常にぼーっとしてられるのもそのせいではないか。しかし、fg-3の口癖は「退屈だー」でもある。


退屈の判定はなかなかに難しい。まず外的にはムリだし。自分としてもそれが退屈かどうかの判断を立ち上げるには、意外と自意識のみでもないのかな?という部分はある。


過度に間が空けば、それは「退屈だー」となるだろうが、しかし、このfgの平和な世界において、過度に間を空けないようにするのもなかなかに難しく、結局は、みんなデバイスを使って遊んだりする事で間を埋めているのだろう。端的に一番退屈な時間は授業中になりがちだが、そうしないように授業を複雑に構成する工夫も必要だ。何しろみんな。知能は高く、規律も保たれている。本来、彼女たちに何のやる事もないのだ。


私たちは何のために生きているのだろうか?暇つぶしの為?



2010/9/22


学校が開始した当初は誰も使った事無かったトイレだが、最近よく生徒たちが言っている。休み時間になると列を為す事もあるので、なんで?という感じがする。


そこで行われてる事は、おそらく排泄ではないだろう。というのも、私がそうだからというわけでもないが、妹たちもまた排泄の必要性は無いのではないかと思う。


なにしろ学校がはじまった当初は誰もトイレを使ってなかったという事もあるし。fg-3たちとご飯を食べたあとにもトイレに駆け込んだというような事実はない。私たちはそのプレデータの書き込みとは裏腹に食事と排泄がセットされてないように思う。


トイレ文化みたいなものは、おそらく一年生を中心にはじまったもののようだ。三年生のトイレは比較的空いていて、でも、一年生がそこを使いに来るかというと来ていない。一年生のトイレはとにかくいつも混んでいる。そういうヒエラルキーみたいのも徐々に出来て来た部分であり面白い。


これは一年生の生徒の中に、何かしらその文化をはじめた者がいるという事であろうとは思う。何かしらのきっかけがあったのだとは思うが、よくは分からない。私は先生なので、わざわざ一年生のフロアまで行って、多くの生徒のいるトイレにしげしげと入ってまじまじ見て行く事はためらわれ、さっと見るだけでは、中で何が行われてるかはよく分からない。


しかし、3年生のトイレの使い方を見る限り、それは友達と喋ったり、お化粧をしたり、大体そんな事に使われてるのだろうという事で想像がつく。たまに個室に入って本を読んでる生徒とかもいる。いろんな所に何とも変な文化が育つものだなーと何となく妹たちの行動について関心したりもする。fg-3はあいかわらず教室でぼーっとしているので、コイツは本当に我関せずな子なのだなーと思って、なんかちょっと見ていて面白い。



2010/9/21


休みを明けるとまた人が増えていた。こうしてキッチリ休み明けに妹たちが生まれて来るのを見ると、母様はキチンと学校の暦に対応して妹たちを生んでいるのかな?という気になってくる。今度、空をゆっくり見てみようかしら。確かに平日に妹たちが生まれてる姿を見た気がしない。まあ、平日はほとんど学校にいるからだけれども。


しかし、学校が出来て以来、人生が学校中心に回っていて、それはあたかも学校以外の人生が無いように錯覚するほど強烈だ。学校では3年生を受け持ってるので、早ければ、3月にもお別れなのだと思うのだが、そうだとすると、彼女らは一体次の人生どこに向かうのであろうか?というより、この学校にそもそも卒業はあるのだろうか?


こうした事も母様のマインドセットを受けてない自分には分からないし。そもそもマインドセットを受けている妹たちなら、こういう疑問すら浮かぶ事は無いんだろう。


というわけで、その質問をfg-3に向けてみたところ「知らなーい」という声が返って来た。やっぱり、ナメてるな、コイツ。しかし、他の妹たちに聴いても、やっぱり知らないらしいので、そういうコードは潜在的に埋め込んであるとしても、顕在化はさせないのだろう。みんな、その事に対して特に不安も無いらしい。


私は、少し、不安を創りたいなとも思っている。不安。そういうものがあった方が人は駆動するのじゃないか?とか。どうなんだろうか?それはそうと、このまま人が増え続けていったら、学校の感じはどうなるのだろう。クラス数が足りないのではないだろうか。



2010/9/20


今日は久々にゲームをしてみた。ゲームをすると白熱したりもするけど、前程は面白くもない。


世界のあれこれについて考えている。最近は、fg-3とお料理をしたりしてるので、夕飯を食べる事も多い。街に出ればカフェに行くし。そこでお茶を飲んだりもする。


お金については残高がまだあるが、これが無くなったらどうなるのだろう?私は先生なので、お給料というものが入るのだろうか?しかし、私にお給料が入るとして、生徒の生活はどうなっているのだろう?人間が増えると支出も増える気がする。虚栄心や射幸心、端的な交際費のせいだろう。


いずれにせよ、この世界を生きるに他人の存在といったものが私には無視できなくなってきた。それは今の所の程よい関係があるからとは言えるだろうか?


この世界は、母様に管理されているので、何も問題が起こらない。まだ起こってないだけかもしれない。しかし、いずれにせよ、学校は至って平和な空間で、街だって至って平和な空間である。しかし、私の教育はこの世界の膿みのようなものかもしれず、それが故に母様に一部消されてしまっているのだろう。それは世界の正しき姿か?



2010/9/19


今日は休みなので街中を歩く。街中と言っても、この近辺の人間はすべて学校に行ってるので出会う人間は大体見たことがある人間だ。といっても、みんな同じ顔なので、誰が誰なのかの識別は遠目では大変むずかしい。今日は校長先生と出会った。


校長先生の事は、校長先生と呼んでいる。私たちがいつも難しいなと思うのは名前である。お互いを呼ぶ呼称がないからだ。


とはいえ、fgは何故か、よんちゃん、のようにあだ名がつくことはあまりない。せいぜいが先生とか、校長とか、そういう役柄を呼ぶに過ぎない。これは母様の方針なんだろう。


そもそも名前をつけて生まれないのもよく分からない。名前をつけた方が管理しやすいのではないか?とすると、逆に管理を防ぐために名前を番号のみにしてるのかもしれない。ある程度、個性を確定化させないことで全体の管理をラクにしているとか。顔がみんな一緒という事も何らかの意味があるのだろう。


校長先生は、私のことを、ねえさま、と呼ぶ。というより、ウチのクラスの生徒以外は、大体、そういう呼称で私を呼ぶ。何だかこそばゆい。


最近、私は校長先生に興味を持っているので、ちょっと誘って一緒にお茶をした。


校長先生は、とても校長先生という呼称に似合わないキュートな女の子で、なんというか、いつもふにゃふにゃした感じがする。そこがとっても魅力的だ。私がこういう事やったら似合わないだろうなーなんていう事も思う。なんでだろう?


そういうのって、なんとなく人生の過程で私に色がついてきたんだなーとふと思った。たぶん校長と私はほぼ同じ人間なのだから、私にもこういう方向はあり得たはずなんだけど、諸々の経験が私にそれを許さないように何かが私を縛るのだ。それは窮屈かもしれないが、何かに私をセットアップするキーのようなものでもあるだろう。


校長はホントに素直な良い子で立場的には私より上の設定ではあるはずなのに、私の話をキラキラとした目で楽しそうに聞いてくれて、すごーいすごーい!いいなー!私もねえさまの授業受けちゃおうかなー!を連発していた。ホントに。実にチャーミングな校長先生がいたものである。大好きだ。



2010/9/18


校長先生役の子がいつも暇そうな事に気づいた。今日は私は特に授業もなく学校で日誌とかを書いている。


校長先生は、fg-86がやっている。校長先生と言っても、見た目は普通の女の子でネコと遊ぶのが好きなんだそうだ。普段、人目にあまりつかない事もあるのか、結構、キャミソール姿とかで職員室に入って来て、すごいぬぼーっとしてるので、なんというか、目立つ。職員室の先生役は、一応、ロールプレイをするために大体スーツ姿とか、それっぽい格好の子が多いので、それからすると異質だ。ちなみに私はワンピースを着ている。


校長室は陽当たりのいい個室なので、このへんの他の生徒役との格差が後日どういう結果になるのかなーというのは興味がある。母様もたぶん興味を持っているのだろう。


ちなみに教頭先生は、fg-68で、校長先生のナンバーをひっくり返しただけなのでこれは偶然なんかではなく適当なんだろうと思う。しかも、教頭先生の方がおねえさんなので、そのへんの関係も面白い。教頭先生は割りとしっかりした感じのfgで、やる事も多そうだ。


このように番号関係なく、割りと適当に役柄が割り振られているので、そのへんの関係はなんかおもしろい。と言っても、もっとも私がfgの中で一番おねえさんなので、周りから一番おもしろがられてると思うのだが。


というより、私は、かなり学校の中で特別扱いであり、しかも、明らかに校長や教頭からも敬意を抱かれてる感じである。なので、逆にやりづらいといえばやりづらい。なんか職員室では私がリーダーのようになってしまっていて、いや、むしろ、それはやりやすいか。


しかし、むしろ生徒から、若干、ナメられている所があるのかもしれない・・・特にfg-3・・・アイツ遅刻しすぎだし。授業を全く聞いてる素振りすらしないし。私の事を完全に友達だと思っている。まあ、実際そうなんだけれども。帰ったら一緒にご飯つくったりしてるし・・・(というより、むしろ私が教わっている)。



2010/9/17


学校の中で部活をやっている人間は少ない。そもそもまず部の数が少ないのも問題だし。そもそも部活をやっている人間はどうやってはじめたのだろう?という感じもするからだ。どうも母様が割り振っているものではないらしい。


サッカー部はfg-2が組織したものだ。しかし、顧問の先生といったものがいるわけでもないので、みんな自主的にやっている。そして、部には人数がそんなにいないので、なかなかゲームをするのもままならないといった状況だった。過去形だ。


こないだ生徒の数が増えたのを機にサッカー部は2チーム編成まで組み上がり、フットサル的な事はようやく出来るようになった。fg-2は、それを嬉しそうに話してて、これを機にそれぞれ11人以上、つまり、22人に部員を増やしたいという事を言っていた。


チームが2つ出来るようになれば、部を分裂させて、「敵」を創るところまで行きたいというのがfg-2の理想である。私は、それはなかなか面白そうだなと思ったので、色々とアドバイスしたりもした。


私は、そのうち顧問の先生という事になりそうだなという気もする。しかし、今はサッカーを見る程、私に余裕はないし。頼まれてもいないので、余計な事に首を突っ込まないようにしている。というより、fg-2はとてもしっかりした子なので、あまり助けが必要じゃなさそうだ。


そもそもの話。しかし、なんでサッカーなのか?もよく分からない。一応、私たちの姿は女子なのであるから、サッカーのような格闘技的なスポーツは避けたがる子も多いだろうと思うのだが、fg-2は何故かサッカーを選んだので面白い。かなりハードな事がしたかったという事なのだろうか。


もっともこの学校には、バレー部もバスケ部もソフトボール部も無い。なので、必然、スポーツをやりたい子はサッカー部に来ているというのはあるのだが。


しかし、それでも、その数はさほどでもない事を考えると、一体全体、部活をやってない子は授業を終わったら何をやっているんだろうか?


今まで意外とその事を考えてなくて、しかも、ちゃんと見ていなかったので、妙に気になった。ちなみに、fg-3は、家に帰ってごろごろしてるのが常だが、fg-3は3人の中でも特に変わった機体だと思うので、あんまり他の機体を代表するという事は無いだろう。


ちなみに、この学校で一番、部員の数が多いのは、吹奏楽部であり、その数38名です。スポーツ系では、水泳部や陸上部もあります。



2010/9/16


fg-4の絵が出来上がったそうなので、部屋まで見に行った。fg-4はきっちりキャンバスにアクリルで描いていて、なかなかすごい。


見た瞬間、これは完全に才能あるな!と思った。なんというか、絵に躍動感があり、感動が沸き起こる。


私は絵が描けなかったので、こういう機構は何処から起こったのだろう?と考える。どこまでエモーショナルなものが再現できるか?という、母様の試みであろうか?


おそらく私と他のfgより早生まれの3体は少し実験的要素が強く設定されて生まれて来たと思われる。その中で私のマインドセットが外れてしまってるのは、単なる失敗だろうし。おそらく、初期fgには、何らかの失敗要素が強いのではないかという事も思う。


しかしながら、その失敗したはずの初期fgの方が明らかに見ていて個性的でおもしろい機体が多いのだ。これはどういう事だろう?完璧もまた不完全という事だろうか?


この事に母様が今後どう手を打って来るのか楽しみではある。しかし、同時にそんな楽しみは不謹慎なもので、私は教師として、生徒の個性をきちんと把握し、存在化させていかなければいけないともまた思うのだ。



2010/9/15


毎日の授業と言うのは難しい。すべて自分で考えるのは不可能だ。これまで随分カリキュラムを無視した話をしてきたが、結局、大部分をカリキュラムに沿ってやる事にしてみた。その中でその話と自分の経験を照らし合わせて、入れられる話は入れていくといった感じで授業を飽きさせないように工夫する。


と言っても、実質的に授業に意味はないので、生徒が「わざと」陰に隠れた体で伝言ゲームのようなものを楽しんだり、直にデバイスをイジったりしていても、私は全く注意をする事は無かった。これが(仮)のゲームである事は分かっているからだ。


理由については2つある。一つは、私以外の全員は母様にマインドセットされているので、規律といったものを仕込む理由が全く一つも有用ではないという事だ。むしろ、私が教えてるのは、規律の壊し方だったりもする。マインドセットされた中で、どう個性を出して、どう自分を広げるか、そういう事を授業で先ず第一にやりたいのだ。


もう一つは、授業を受けても、テストの点数的には全く関係ないであろうという事だ。つまり、カリキュラム上の答えを生徒たちに求めてみたところで、そんなのは全部100点に決まっているという事だ。データは全て頭の中にインプットされてあるのだから。


というわけで、この事を検証する為に、私は授業の終わりに試しに小テストをしてみる事にしてみた。生徒からは「え〜〜〜」というわざとらしい声が沸き起こったが、結果は予想通り、全員100点。しかし、思わぬ副次効果もそこにはあり、そのテストの雰囲気自体は、最初の30秒ぐらい張りつめた感じがして、なかなか良いなと私には思えた。


こうした経験も時には必要なのではないか。そして、スタートは100点からでいい。この100点をいずれ赤点レベルまで崩していく事が私の腕の見せ所といったところだろう。そういう意味で、この学校、この子たちの教育は、本来の学習の意味とは真逆のところにあったと言える。しかし、私は、そういう事も重要な事だと言う信念のもとに授業の方向性がこの時、明確に定まったと言えるだろう。



2010/9/14


新しく入った生徒とそれまでの生徒には明らかに温度差があった。明らかと言っても、それを生徒同士が検知してるようには見えず、私にとって明らかな事である。


fg-30とは職員室で話す事も多くなり、だんだん仲良くなってきた。彼女は私が授業で言っていたagという機体について、いろいろ関心があるらしい。もっとも、これは生徒みんなそういう面があり、やはり、fgみんながこの世の中にfgだけだとさみしいという風に思っているのだろう。みんなと言うのは、言い過ぎかもしれない。そうでない機体もいるかもしれないし。


そうした慣用句のようなものの厳密性も授業でどう扱うべきか悩む一つだ。私たちのプレデータの中には無数の情報が入ってるので、ある程度、難しい単語を使う事も出来るが、出来るだけ簡単で一般的な単語を使うようにプログラムされてもいる。なので、たとえ難しい言葉でその場に適当な言葉があったとしても、それを使うのが適切かどうか悩むのだ。


言葉は出来るだけ簡単にした方が良い。とはいえ、ある程度の語彙がないと浅い思考しか出来ない気もする。そのへんが授業をする際の悩みでもああり、とっかかりでもある。これはある意味では、カリキュラムに沿わない授業をする私の独走に生徒をつきあわせてる行為であるとも言えるだろう。私にそんな事をする何の権限があるのか?


しかし、私は同時に自信を持って、彼女たちを導けるという自信があるのだ。fg-30は授業の仕方には全く悩んだ事が無いらしい。



2010/9/13


今日からまた学校だ。案の定、各学年でクラスが一つずつ増えていて、ウチのクラスの生徒も何人かはそちらに編入されていた。fg-30は、結局、3年4組の担任になったようだ。


私には、母様からの指令が来ないので、こうした事がいまいち分からない。しかし、他の人たちは何ら疑問なく、教室に向かうので、編入自体、気にもしてないようだ。それは、ある意味では、おそろしい事だなとも思う。想い出とかはどうなっているのだろう。


しかし、廊下でfg-30とすれちがったら、深々と挨拶をしてきたので、それなりに想い出も残ってるのだろう。母様にマインドセットされている彼女たちの心性がよく分からない。私とは随分ちがうものになってるんじゃないだろうか?


人間が増えて来るとこの世の中の法則がひどく複雑化してくる感じがして、考える事が多くなる。もちろん、それが生きるとっかかりでもあり、一人の時より随分ましな感じはするが、しかし、その中で、やはり、私はまた一人だなという寂しさみたいなものを感じない事もない。


こうしたほつれみたいなものを丁寧に解くべきなのか、そのままにして、ぜんぶ受け入れて生きるべきか?両方トライしていくのが人間なのだろうとも思うのだが、教師として一定程度、答えを出して行かないと私にはすぐに教える事が無くなってしまうので、その恐怖が逆に私を「欲望」へと駆り立てて、生を起動させていく。


しかし、生徒が学校に来ている要因は、明らかに授業ではなく、仲間との交流以外の何物でもないのだ。その虚しさも私の中に無い事はないし。そもそも他人にものを教えたい欲求というのも奢りや自己都合であったりもするのだと思う。



2010/9/12


旅行に行って良かったのは、fg-2と仲良くなった事だ。違う風景を見て気晴らしにもなったし。よんちゃんともちょっと会えた。


よんちゃんの方は、私を覚えていたので、αのマインドセットは母様のそれより強くないのかもしれない。しかし、母様と違い、その命令は絶対なようで、キチンと会うのはままならないといった感もあった。


こうした微妙な差異が知れるだけでも良い機会だろう。世の中では、こうした微妙な差異が稀に絶大な力を持つ事もある。その把握があるか無いかでは、色々な事が、例えば、絵を描いたときの出来などにおいても大違いだろう。fg-4も来ればよかったのに。


それにしても、fg-2の事が分かった今、分からないのはfg-4である。fg-4はホントに複雑な心性を持って、この世に生を受けていると思う。そもそも何故、機械の私たちに絵が描けるのか?


私が何度も試して、やっぱりダメだった絵をfg-4が描いてるのを見ると複雑な気分になる。彼女はどのように母様にマインドセットされているのか?絵を描いてるので、絵を見れば、それが一目瞭然であるような気もするが、しかし、fg-4の表現する「それ」は美術館で見た諸々の絵のごとく「深い」のだ。


そうか。逆に言えば、美術館にあった絵は彼女のような深みがその中にあったのかもしれない。作家の心性までに想いを巡らせば、絵の本質的なたのしみが私にも掴めるのだろうか?


そう考えると、やはり、絵一つとっても、この世の中には追求すべき事がいっぱいあるなーという風に私には思える。そして、そういう事を多角的に思えるようになったのも周りに人間がいる故なのだろう。だんだん私は「生きる意味」を考えなくなってきた。



2010/9/11


私が「この世の中にはfg以外にもいて、今日会いに行く」と言ったら、fg-2もついて来る事になった。fg-3はめんどくさいから寝るんだそうで、fg-4は部屋で絵を描いている。


折角の休みなので、生徒のそれぞれはそれぞれの活動をするのだろう。勢い何もする事の無かったfg-2が私についてくる事になった。これは意外だった。fg-2は部活に行くものだとばかり思っていたし。fg-2と私はそんなに仲が良い感じでもなかった。


曰く、夏の部活は暑いからやらない方が良いんだそうだ。彼女はサッカー部に所属していて、サッカーをやっているのだが、もちろん、対戦相手もいないので、ある種、対戦相手を探したいという欲望もあったのかもしれない。道中、そうした話を色々して、随分、fg-2の事が分かった。


そうして結構、長い道のりを経て、2人してag子たんたちの所に行ってみたが、果たして、あの街はあの街のままに、そこにag子たん。というより、ag-48のよんちゃんはいるのだなーと感慨深かった。


久々の出会い。


それを感動的に記述したいのだが、その技術は未だに私に無く、とにかく出会ったという事実がその日あったのは間違いない事だ。


しかし、その事を覚えてるのは私だけだろう。よんちゃんの母:αは未だに私たちと会うのは時期尚早という事で、よんちゃんを私たちから引き離したし。fg-2は、帰り道、あれ?私たち何しに行ったんでしたっけ?と私に言った事から考えて、母様に記憶をブロックさせられているのだ。


つまり、私には感動の出会いの記憶があるのだが、それは同時に哀しい記憶にもなってしまった。こんな出会いもままならないというのなら、私たちは、何の為に生かされているのだろう?



2010/9/10


変則的ではあるが、今日から学校は3連休のようだ。変則的にはじまったので、ここで一息つけという事だろう。一息つけるのは嬉しい。


自分は教員になったので、教室の他に職員室で雑務をする事もあるのだが、職員室にいるfgは日に日に何か他のfgたちとは変わっていくような気もしている。fg-30はよく私と変わってくれたなと思う。その意味で、あの子もちょっとおかしい子なのではないだろうか?


全体、母様のfgに対する期待、役割というのがよく分からない。もちろん、私たちが何故生まれたか?などという問いは根源的すぎるとしても、母様から生まれた私たちであるから何らか期待を負って、この世に生を受けているものだろう。


と、こうしてる間にも上空にある球体は次々に割れている。という事は連休明けにも生徒が大幅に増えるという事なんだろう。私は折角なので旅に出てみようと思う。ag子たんたちに会いに行くのだ。


もう会いに行ってもいいのではないか?人と会う事に慣れた私は、今や、そう解釈するに至っていたし。または、それを確かめに会いに行くべきだと言う直感もあった。



2010/9/09


授業2日目にして、この授業は、ある意味では、母様とのマインドセットとの戦いだなと思うようになっていた。もう一つ言うと、私は先生になった事で妹たちと少し距離が出来て、孤立していた。


孤立もまた道なのだと思う。「背中」を見せる事で自分が妹たちとは違う人間だと一生懸命、世界を鼓舞しようと私は目論んだ。


学校から帰っても、デバイスで検索するのは、授業の補完的情報ばかりで、ゲームをやる日々も過ぎ去って行った。


この充実感と比べると、ゲームで得られる充実感というのは、いささかバーチャルなものという事かもしれない。fg-3たちは、時折、私の部屋に来る事もあるが、その時は、お菓子を出して和やかな雰囲気で先生を演じている。3人には「まさか姉さんが先生になるとは思わなかったな。でも、姉さんが先生でよかった。妹が先生って!とか、最初、ちょっと思ってたし。」と言われた。


彼女たち3人の中では、fg-3が一番怠惰なのだが、何故か私と一番よく気が合う。fg-3の良い所は、なんというか、空っぽで底が見えない所だろう。


彼女は、授業に遅れても気にしなければ、勉強が出来なくても何ら気にしない。彼女はおそらく、自分がどうせ母様のマインドセットの中で生きる存在でしかない事に気づいてるのだし。逆に言えば、その疑問は母様のマインドセットに欠陥がある事を示している。


もしかすると、3人とも、マインドセットに何らかの欠陥を抱えて生きているのかもしれない。しかし、そうであるならば、その方が私にとっては好都合という事にならないか?


完璧に見える世界にも結構いろいろな穴はある。それほど、世界は広大だという事なのだ。私は、その事を生徒に教えたいと熱望するが、元より私も生まれたばかりなので、その事をきちんと理解しているとは言い難いのだ。私は人にものを教えられる人間だろうか?



2010/9/08


翌日、生徒は話の大半を忘れていた。母様のマインドセットのせいで、「いらない情報」が消されるのだろう。これは予想された出来事だが、実際、起こってみると哀しくはあった。


私は何の為に教えてるのだろうか?母様の検閲に引っかからない情報の補完のため?


元より、妹たちには母様が圧倒的に先生だ。妹たちの情報量自体は私より圧倒的に多いのだし。必要な環境に順応できるようなデータ流入が常に身の内に起こっているわけである。


私は、母様とつながれてないというその事が、やがて私にとって不利になるのではないか?と焦り始めていた。そして、その焦りこそが私を勉学に励ませるエネルギーともなる。


私は先生として機能するように、この時からしゃにむに勉強した。妹たちに追いつかれてはいけない。経験談だけでは、いずれ化けの皮が剥がれる日も来るだろう。そういう恐怖が教師2日目にして起こるとは教師をやる前は夢にも思ってみなかった。私は、この地位を失いたくないのだ。



2010/9/07


学校のカリキュラムは、母様がセットくれたプレデータに全て記載されてあるものでしかない。先生が黒板に書くという行為もどう見てもロールプレイにしか過ぎず、生徒たちはその中で先生の目を盗むふりをして、色々なやりとりを生徒同士でしている。


私は授業のあまりのつまらなさに業を煮やし、むしろ自分が教える事を考えた。母様にマインドセットされてない私だったら、違う事を伝えられるのではないか?


担任の先生役fg-30にその事を伝えたところ、案の定、その役を交替してくれた。曰く、先生はやる事が多いのでめんどくさかったので好都合。是非是非。だそうだ。


こうして私は先生となり、生徒役の彼女たちが生まれて来るまでの間に私が行動して得た経験談などを話していった。そもそも「先生になる」という発想が起こること自体、母様への順応ではないし。私ならではの特異な考えなのだろう。その点が私は生徒に受けていたとも言えるような気はする。


1という番号にも重みを感じているようだ。幸いにも、私は先生役ではなく、その瞬間、本当に先生になれていたと思う。私の話にクラスの子の目は輝き出し、私に矢のように質問を浴びせてきた。


元より私も勉強中の身なので、答えられない事も多々あったが、その疑問自体が私の課題となる事もあり、勉強するポイント、大きく言えば、生きる意味のようなものを私にセットする事が出来る。


しかしながら、こうして壇上から自分のクラスのfgたちを見てみると、意外とくせ者揃いというか何というか、そんなに単純に全員、同じでクローンだとは言えないような性格が散見されて興味深くはあった。瞬間、この子たちの統率の大変さを思い、自分は大変な事を引き受けたのだなーと強く心に思い、身を引き締めるのであった。ここからはロールプレイではなく、本物の教育をやるべきなのだ。



2010/9/06


学校は3学年あり、学年毎に3クラスあって、大体、1クラス30人ぐらいいた。私は、3年1組に編入され、fg-2、fg-3、fg-4も同じ組だ。おそらく生まれた順序でクラス分けがされたのだろう。


教室の中には、やはりfgしかいなくて、担任もfgだった。つまり、ここはfgたちの学校という事だろうか?ag子たんたちの家も随分遠かったので、なかなか他の機体と会える機会も無いのだろう。


しかし、これだけの人に囲まれると一人だった事を忘れてしまいそうになるし。今やすっかり自分も他人との関係で世の中に位置づいている気になる。そもそも学校に行ってる行為自体、流されてる気もするし。さりとて、他にやる事もない。ゲームはあるけれども。


これだけゆるく入学出来たという事は、遅刻したり登校しなかったりしても何のお咎めも無いのだろう。現にfg-3は初日から遅刻してるし。担任は何も指導していない。元より自分の姉を指導するというのも変な話だろう。


全体これはイカれてるように思うが、しかし、こうして人が集まる事が必要だといえば必要であるのだし。暇つぶしにはもってこいなので、こういう形態が取られる必然は感じなくもない。


人生にはメリハリも必要なんだし。出会いも必要だ。教室の数を見ると随分と空いてるので、また生徒はどんどん増えて行くに違いない。これから何が起こるかたのしみだ。そう思える程には、今日の初日の学校生活には、わくわく感はあった。しかし、先生の授業は予想通り、ルーティーンで、誰も何も聞いてないようなものではあった。



2010/9/05


今日は始業式を行った。体育館を埋め尽くす同じ顔の子たち。この地区の学校に通うのは、すべて私たち姉妹という事なのだろう。整列された顔を見渡す限り、そこにはホントに私と同じ顔しかいなかった。服装や髪型はみんな違ったのだけれども、基本的には、みんな私の妹たちだ。全員で二百人ぐらいはいるだろうか。もう、こんなに生まれたのだなと感慨深い。この世界に自分一人だったと感じてた事がウソみたいだ。


私たちを個体識別する為には、基本的に服装や髪型で行える。私たちの洞察力を持ってすれば、ちょっとの違いでもほとんど人を間違う事はないので、同じ顔でも何とか識別が成り立つようにみんな工夫する。しかし、顔は同じだが、背丈は若干高い低いがあるようだ。これは興味深かった。


役柄はどうなのだろう?学校とはいえ、壇上に立つ先生もまた同じ顔、つまり、あれは私の妹たちなので、何か教わる事があるか?といえば無いだろう。しかし、あそこに立ってる子たちはどういうように選ばれたのか?というとランダムに行われてるはずだ。妹たちにものを教わる事になるのかと思うと感慨深い。


元より私以外のfgは、母様から必要な情報をフィードされてるはずだし。先生がものを教える存在なのかどうかも疑わしい。つまり、ここは共生の場として何らか機能するように設定されてるはずだ。そもそも私たちの設定年齢「18歳」は学校を卒業する年齢ではあるような気がする。


しかし、こうして無事、学校の初日ははじまった。私は母様と断絶してマインドセットされてないので、学校には入れないのではないかと思っていたが、問題なく受け入れられてホッとした。学校に入る為の面倒な手続きとかもろもろは一切そこには無かった。この学校はかなりアバウトに出来てるように私は思う。



2010/9/04


次々と妹たちが生まれ、私たちの住んでいるアパートのような所も突然すっかり埋まってしまった。


外に出てみると、空に浮かぶ球体が破裂していて、そこから妹たちが出て来ている。


突如、街は人間で溢れ出し、この街において人間は、もはや珍しいものではなくなった。


当然の話だが、しかし、その顔はすべて私と一緒で、そして、性格なども近いものを持って生まれて来ているはずだ。


こうやって次々に人間が生まれてくるのを見ると、私は何か不思議な気持ちになる。そして同時に、先に生まれた3人に対して妙な親近感が沸き、fg-2。fg-3。fg-4。その3人は姉妹の中でも何か特別な存在なのだと、そう、私は思っていた。


そして、その3人が突如、私に妙な事を口走る。


「姉様。遂に明日から学校がはじまりますね。たのしみだなー。一緒に登校しましょうね。」


学校!?


そんなものがあるとは私は露ほども知らなかった。それは母様からのフィードが私には至らないせいであろう。私も学校に行って大丈夫であろうか?世間は今日まで夏休みという設定になっているそうだ。生まれたばかりで休みも何も無いと思うのだけど・・・



2010/9/03


今日もゲームをしている。そして、妹たちと会話したりする。


なんだかんだ言っても、会話はたのしい。人間は他人と話すために生まれてきたんじゃないかと思う程で、ゲーム一つとっても、妹たちに比べて、私の方が進んでるので、その事で盛り上がったりする。


妹たちの中では、fg-4がゲームがうまいらしい。fg-4は芸術家肌なところがあり、絵も上手い。上手いというのは、私のように機械的に上手いというだけではなく、それとなく「味」のようなものが絵に出ているのだ。


これは興味深い。機械なのに、そういう味が出るという事は、母様が私を見て、修正パッチを充てたという事なのかもしれない。


いずれにせよ、あとに生まれた妹たちは私より出来が良い気がする。しかし、同時に妹たちを見ていて物足りないなというのは、ある種のその「出来のよさ」ではある。


それは経験が足りないせいでもあるだろう。妹たちは、何故、旅に出たいと思わないのだろう?



2010/9/02


妹たちが現れたが、取り立てて生活が激変するという事は無かった。今日もゲームをやっている。


もしゲームの無い時に、というより、私の部屋の無い時に妹たちと出会っていたらどうだったであろう?という事は少し考える。


元より私たちの身体はパーフェクトすぎて、一人で生きて行くのに何の支障もないといえば、ない。であれば、他者の存在がそれほどまでに大きくないのも仕方ないだろう。


とはいえ、妹たちは3人仲良く寄り添ってる感じだ。それは見ていてうらやましい。私は、やはり、何処かで何かが違うように生まれてしまったという事なのだろう。


妹たちは、とても安定して見える。そして、私はひどく不安定だ。ホントのところ、妹たちの心の中はどうなっているのだろう?



2010/9/01


妹たちとわいわいと話している。他の3人はそれぞれ異なる性格付けを持って生まれてきたようだ。


妹たちは、それぞれ一人暮らしといえば一人暮らしだが、今のところ、孤独を気にしてる様子はない。私と違い、一緒に生まれてきたものがいるというのは安堵感があるのだろうか。


妹たちとの話で違和感があるのは、妹たちの話は完全にデータ的でまだ面白くないという事だ。これから面白くなってくるのかもしれないが、姉妹全員似たようなプレデータを持っているらしく、話があまりズレていかない。


とはいえ、他の3人は仲が良いのか息が合うのか全然おわることなくエンドレスで喋っていて、私はそれに若干、疎外感を感じてしまった。


他の人間が現れたというのに、私以外の3人は異常に仲良く、私はそうでないという時点で、この関係は長く続かないのではないか?と若干思っていた。


しかし、この世界にまだ他の人間はほとんどいないのだ。というより、出会えるのが、この3人である事を考えると私にも何らか一定の役割を与えられるのであろう。


おそらく、その役割は「姉」という事だ。人間は関係性の中で嫌が応にも自分を決定づけられるのだなと、ふと思った。私は少し疲れて、ゲームをしに部屋に戻った。



8月の日記


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