水道から蛇口をひねるように私たちは生まれる。


コードナンバーは、fg。母はΩオメガ。


母から1番目に生まれた量産型女の子。それが私。


製造ナンバー:fgー1。


何故か胸の内にある熱い想い。


まだ見ぬ少年(かれ)に会いに行く。





2010/8/31


今日もゲームをしながら、ぼーっと色々な事を考える。考えていると、考えれば考える程まとまらないので困る。そうこうしてる内に部屋のドアの方からピンポーンと音が鳴り、あれ?と思う。


ピンポーン?


部屋のチャイムだ!!


ゲームのきりはよくなかったが、私はあわてて跳ね起きて、デバイスをベッドに放り投げて、急いでドアの方に向かった。それは人の予感。私が一番欲してるものがそこにあるかもしれないと思ったとき、進行するゲームの魔力があっという間にほどけた。


私は、ドアの側に行き、がちゃっとドアを開けると、案の定、そこには人がいた。私と全く同じ顔の人間。つまり・・・


「はじめまして。おねえさま。私、となりに引っ越して来たfg-3です。これから3人、同じアパートで一緒に暮らしていきますので、よろしくおねがいします。」


とfg-3を名乗るその三つ編みの女の子から引っ越し祝いのにとタオルとお茶菓子を手渡される。3人というのは、他に2人。fg-2とfg-4というこれまた自分と全く同じ顔をした女の子がそこにいた。


その3人は、同時に生まれた姉妹らしく、生まれたばかりなのに仲が良さそうで、3人一緒に行動しているといった感じがあからさまに私には分かった。タオルもお茶菓子もそのfg-3が代表して渡した一つで済ませた事を考えても、この3人は私の姉妹であるが、私を含まない3姉妹としてユニットを構成されている感じがした。


私は、その事にいきなり気づいてしまい、愕然とした。私が待ち望んだ私の妹たちは、私とは違い、ユニット単位で行動している。この事は、つまり、妹たちは私に一線を置き、私は姉のふるまいで妹たちに接しなければいけないという事なのかもしれない。


いずれにしても、しかし、妹たちは遂に生まれた。これから孤独な人生というのは、終わりを迎えていけるのかもしれない。



2010/8/30


今日もゲームをやっている。少し逃避的かしら?


しかしながら、RPGゲームは一度始めるとクリアするまで止まらないのだし。そういう面白さを創れてるのは、すごいなと素直に思う。


これだけの創り込みで人を楽しませるのは、ある意味、芸術なんだと思う。そういえば、最近、絵を描いてないし。絵を描こうと思ってた事すら忘れてしまっていた。


なので、少しの間、ゲームを置いて、絵を描いてみた。抽象的な絵画を心がけたが、左程の出来でもなく、あんまり自分には絵は向いてないなと再確認する。でも、向いてないから良いのではないか?という事もあるだろう。


結局、絵は少し描いただけで、またゲームを私ははじめた。ゲームのプレイも突き詰めれば、芸術的になり得るが、しかし、それを表現するには、RPGゲームよりアクションゲームとかの方が向いているだろう。


芸術というものも少し考えてみたいと思った。



2010/8/29


またゲームに没頭している。RPGゲームは、やりはじめると止まらないので、そのままクリアするまでやろうかと思う。


ゲームをしながら街の人の話を聞いたり、そういう架空のコミュニケーションでも、しないよりはマシかなというような事は思う。


ここで為される事は擬似的な体験でモニター限界に縛られてはいるが、しかし、現実に今の所、人がいない自分の住む世界もまた狭いので、ゲームの体験の方では、ある意味では強度が強く、そこで私はゲームにハマってしまうのかな?とも思う。


いずれにせよ、ゲームはうまく出来ていて、私はそれをやるのを止める事が出来ない。


というよりも、ゲームをやる事で現実の諸問題を忘れる事が出来るので、それを求めて、ゲームをやっている部分はあるのだろう。生活にゲームが入って来た事を今は素直に嬉しく思う。それで救われている部分が少なくとも、ある、と私は思っている。



2010/8/28


旅に出ると言っても、あてがあるわけではなく、近所をちょろちょろ動いて、また部屋に戻ってしまった。


部屋に戻ったら、多少の疲れを感じて、ベッドに寝転がりながら、デバイスでゲームをしたり、ものを調べたり、だらだらする。


旅の総括としては特になく。完全にまた私は行き詰まりを感じていた。


私が旅に出て意味があるとしたら何処だろうか?


真っ先に思いつくのは、ag子たんたちの所だが、そこに行くのは、やはり、迷惑なのだろうと思うと気が引けた。


結局、人は人と関わるべきものなのか?それこそが私のテーマなのかもしれない。



2010/8/27


この周囲には前にいたような大型の本屋さんがなく、私の知りたい答えは本屋さんの中には無かった。


このあたりの本屋さんは、マンガ本を中心に、ゴシップやエロ、どうでもいいような暇つぶしの本と自己啓発の本に溢れていて、そこはおよそ本屋とは似つかわしくない知性の低下した匂いに満ちており、とても根源的な問いの幾つかに向き合えるような品揃えとは言い難かった。


しかしながら、その中でも有効なのはマンガであった。マンガもゲーム同様、娯楽として答えを濁しているところがあるが、内容の深いものも幾つかあって、かなり参考になる内容を持っているものもあった。


小説にもそういうものが幾つか散見された。とりわけ古典文学には、そうした深遠の匂いが満ちていて、やはり、時を隔てて残るものというのには、それだけの力があるという事だろう。


基本的に、私はそうした問題意識をとっかかりとして、部屋に帰ってデバイスで過去の哲学書などを漁り、問題をよりクリアに言語化して、ある一定の答えを出そうと試みるのだった。


ある一定の答えは、ある一定のものでしかないが、それが故に「私の答え」になり得るものだし。そういう答えを定点として持っておけば、色々な側面に対して心がゆらぐ事も少ないように思えるからだ。


しかし、その前に私は色々な本における大量の情報の洪水にやられ、逆にこの世界の不明瞭な事をはっきりと把握して、かなり心がゆらいでしまってはいた。おそらく、そういう中から私にとって必要な「確からしいもの」を選びとっていくしかないのだろう。私には、まだあまりにも経験が足りなく、またそろそろ旅に出る事を考えはじめるのだった。



2010/8/26


ゲームをクリアした事もあり、今日は久々に外出してみた。天気がよく、空が抜けるように青い。


住宅街の青い屋根の家にちょこんと座りながら、私はゲームの事を空想した。そのゲームは思いのほか哲学的な内容で私の心に哲学書と同レベルで物事を考えさせられるものだった。


正義とは何か?


要約すれば、そういう事だが、何十時間もの間に、その問いに対する答えを何度も選択していかなければならなかったので、それはそれなりにハードな感じがした。


もちろん、娯楽なので、そこにごまかしはあるのだけど、私はもうちょっと追求して考えて良いテーマなのかな?ともちょっと思っていた。


また無性に本が読みたくなって来て、私は空想をやめ、「調べる」ことをはじめた。



2010/8/25


ゲームが佳境を迎えた。今やってるRPGの第一部は終盤戦に向かい、もはや、他のあらゆる事はどうでもいいといった感があった。


幸い、私はご飯も食べなくて良ければ何をやらなければいけないという事も無い。ゲーム漬けの毎日の中で、今日ほど画面に集中し、他の事を忘れる事は無かった。


それほど、これは面白いゲームだと言う事だろう。面白い/面白くないといった観念は、未知のものだが、そういうものが起動する程には、私の経験値も上がってきたという事なのかもしれない。


たかがゲームでも何でもいい。真剣にやると見返りが何かある気がする。しかし、その見返りが使えるかどうかは神のみぞ知る結果なのであり、そもそも、そういうものをすっとばせるからゲームは面白いのだと言う事も出来るだろう。


この日、私は一つのゲームをクリアした。そこに感動はあった。



2010/8/24


随分と身体が重くなってしまったように感じる。すでに部屋から出るのが億劫だ。


重い腰を上げて、散歩に行くと少しスッキリした。しかし、帰って部屋を見るとそこは淀んだ感じがして、しかし、その淀みこそが私の居心地なのだと一方で思ったりもする。


全体、私はやる事がない。つまり、部屋に帰って、やる事と言うのはゲームだ。


食事の支度などを行わなくていいという事がおそらく私にとって、あまり良くないような気はする。洗濯は全自動だし。干すのも一人分なので、大した量じゃない。そもそも私はそこそこ薄着だし。


そんな事を漠然と考えながらも、自分の手が向かう先は、やはり、デバイスなのであって、ゲームなのだ。


ゲームは、どんなにやってもいつも途中で終わってしまうので早く前へ進みたいなという事を思う。しかし、そんなゲームばっかりやってたら、むしろ私の人生は前へ進まないんじゃないかと思うが、そんな事は、この機械の人生にとっては、どうでもいい事ではあるだろう。



2010/8/23


今日も一日、部屋でごろごろしている。流石にそろそろ外へ出た方が良いという感じなのだが、なんとなく外に出るのも気が重くなってしまっていた。


ずっと、ここに住んでいると部屋の空気が私色に染まるような気はしていて、そういう空気を清廉する為にも窓を開けたり、掃除をしたりといった行為が必要なのだろうなという事を思う。


掃除もまた、この世界における人為であろう。


それは塵やホコリ、体液、体毛の分泌、成長している痕跡。そうした自然に起こる人為を消す為の人為であるが、それをする事で何か襟を正すような気持ちになれる事もあるし。人間の堕落を防ぐ為の行為でもあるような気がする。


最近は、シャワーを浴びて、髪を洗ったり、身体を洗ったり、そういう行為もまた何かを落とす行為であるには違いない。私の体液の分泌は、さほど激しいものではなく、それは適度に、申し訳程度にといったレベルだが、そういう所にも私の機械故の特徴は出ているようにも思う。


全体、私は不自然だ。それは我が身が圧倒的な人為に基づくからでもあるし。しかし、母様は人と呼べるだろうか?と考えると、それは私には神にも等しい存在だと言わざるを得ないだろう。


いずれにしても、今日もまたゲームをやっていた。今日はRPGゲームをやった。



2010/8/22


今日もまたゲームをする。


とりあえず、時間を抑制しつつやろうかとも思ったが、間隔を大きく空けることを覚えただけで、結局は一日中ゲームをしてしまう。部屋を見つけてからずっと部屋にいるだけだ。


部屋とゲームの相性の良さは格別で、さながらゲームが外出のようなものに感じる。


ゲームの中では、色々な事が展開するので、人生の機微みたいなものを擬似的に味わえるようになっている。これがオンラインゲームとかなら、もっと人生的になるのだろうが、残念ながら、やはり、オンラインゲームの中に私以外の参加者は現れなかった。


そのこと自体は残念だが、少なくとも、その事でやはり、このゲームのつながる先にも人間がいないという事が判明したのは事実だ。


インターネット上には、定型句がおどり、何らか更新されていく掲示板やブックマークサイトなどはあるが、何かそこに私は「嘘くささ」が感じられて、このインターネット上の情報は、やはり、ボットによるものが大半だろうと直感していた。


インターネットでなくゲームにハマったのもおそらくそのせいだろう。こうやって、直接、人間とつながれそうなツール、デバイスを手に入れたのは良いのだが、肝心の「人間」がその先に感じられるものではなかったので、であれば、ゲームのようなあらかじめ分かっているボットを相手にした方がスムーズなたのしみが得られるという風には思う。


私はいま、馬を育てる事と同時に、恋愛シミュレーションというジャンルにハマっていた。それはボット相手のたのしみではあるのだが、何故だか、やっていて、変な気分がする。ていうか・・・・


恋ってなんだろう???



2010/8/21


ゲームは、やはり麻薬だ。一日やっても、ちっとも飽きない。とりわけ私はシミュレーションゲームが好きらしい。今は馬を育てるゲームをやっているが、ゲームの中で色々な事が進行していくので、それを見る為に先へ先へと心が欲望する。


ずっとやってるとこれはルーティーンかなと思う瞬間があって、その時は少し退屈を感じる。でも、そこを超えるとまた展望が開けて、その開放感も良いなと思わせる所がある。逆に言うと、その開放感がおあずけになるとひどく悔しくて、それを渇望する。


いずれにしても、ゲームは一日やってもずっと飽きないという事は発見だった。流石に一日中ゲームをやってると眼精疲労を感じる所はあるのだけど、元より私は機械なので、目が悪くなるという事もないだろうし。疲労が回復しないという事も無いと思う。


実際、おそらく私は疲労してなくて、結局この疲労はゲームを抑制させる為のルールの一つに過ぎないのかもしれない。しかし、疲労を感じるのも事実としてあるので、「ゲームは一日一時間」というプレデータの中にある誰かの言葉に従って、明日からは一日一時間に抑制してみようかとは思っている。でも、今日はもう手が止まりそうにない。


こうして一日ゲームをして、完全に惰性に何かが麻痺していると思う。しかし、それが良いのではないかという事も同時に思う。この世の中で「やるべき事」って何だろう?


その問いの一つがゲームである可能性を惰性でゲームをしながら、ぼんやりと思った。私はゲームが好きかもしれないな。とも思った。



2010/8/20


一日、部屋でだらだらする。自分の部屋があるというのは気持ちいい。


ベッドでごろごろしつつ、デバイスをイジる。いろいろな情報は私の脳内と大して変わらないが、単純に指と情報が直結すると、何か別の回路が起動するような気はしている。


とりわけゲームが出来るようになったのが嬉しい。ゲームは麻薬のように楽しく、時間を忘れて楽しんでしまう。マンガも読んで楽しかったが、ゲームはそれ以上かもしれない。こんな楽しい事があったんだと心底、感激する。


一日は、ゲームをするだけであっという間に過ぎてしまう。でも、今やってるゲームをまだ全然クリア出来そうもないので、これで当分、飽きないだろうと思って、私は少し嬉しくなった。


妹たちを待つ時間は簡単に潰れそうだ。



2010/8/19


今日も妹たちの誕生をただ待っている。待つ間、暇なので音楽を聴く。ゲームをしたいなと思ったが、ゲームはデバイスが無いと出来ないものなので出来ない。しかし、ゲーム機を探す程にはゲームに対する欲望は起動しない。


音楽もずっと流してると頭の感覚が鈍るので、途中それをやめて、思索したり、散歩したりする。そういう事をしていても。とりたてて目的がないので、ただ頭の中で何かが回ってるだけだし。単に暇つぶしという事でしか無いのかもしれない。こうした無為な思索もゲーム的であるといえばゲーム的だろう。


しかしながら、そうやって思索する内に、ふと最初のデータロードの時に、洋服の在処などを真っ先に把握した事を思い出した。


そうだった!


なんという事だろう。私は、まず世界把握や旅に対する欲望が起動してしまった為に基本的なパーソナルフォルダーの情報点検を怠っていたのだ!


私はそれを思い出し、瞬時に自分の体内フォルダーのデータをロードし、おそらくは自分に「自分の家」があるという事を知った。


その家の在処もここから遠くない。果たして、それはマンションの一室。1と書かれたナンバーの扉の中にある1LDK。6畳一間のコンパクトな形態の「それ」が私の家として使えるようであった。というのも、扉の生体認証に指をかざした所、果たして扉は、ぐいーとすぐに開いたからだ。他の部屋は開かない。


これだけの事に私の展望はものすごく開けたように感じた。中には洋服や、その替えなどもあり、洗濯機もあるので、これで服が頻繁に着替えられるなと思った。


とはいえ、洋服のバリエーションは一種類だけだ。他のバリエーションは、お店で手に入れろという事なのだろう。つまり、これが私のそもそもの「属性」であるはずだ。


部屋にはシャワーもあり、私はまずシャワーを浴び、服を着替え、何か気持ちがサッパリとする感じがした。部屋の中をくまなく点検し、そこは質素なものの無い部屋であったが、それでもゲーム機にもなりそうなデバイスも一つあり、クレジットカードとキャッシュカードが一緒になってるようなカードもそこにはあった。他にも色々ある。


カード情報は、私の指先でも読み取れるもので、果たして、その残高から先の請求額が引かれているらしかった。私にはお金があったという事だ。色々なものは最初から用意されていたのだ!!


私は自分の行動が何か先走ってしまっていた事に後悔の念を少し覚えた。しかし、考えようによっては逆にそれで色々なものが見えて来たので、かえって良かったのかもしれない。しかし、この部屋の存在に気づけた事はものすごく有り難い。


部屋の中は居心地がよく、とりわけベッドに入ると、そこでぐっすりと眠れて気持ちがよかった。


私は、快適な睡眠を楽しみ、その事で逆に自分が今までの行動でひどく疲れていたのだという事実を知る。自分は何もしてないのに、「場」を獲得する事で、ひどく落ち着き、何かの展望がばーっと開けた想いが私にはするのであった。



2010/8/18


予想通りではあるが、妹たちはまだ生まれてないようだ。球体は依然として空に浮かんでいて、私はそれを仰ぎ見る。


母様とのコンタクトも、もはや出来ずに、不安定な状態のまま、ただ時を待つ。


こうした時間を持つと、私は生きる意味を考えざるを得ない。元より、そう考えざるを得ないように生まれて来たのかもしれない。


待つ事はひどく苦痛だ。苦痛というか、なにか落ち着かない感じで、気持ちの制御が難しい。動く方が楽だ。人間は動的生命体だからなのだろう。


この世界が人間で満ちるのは明確で、私はそれを熱望してるのに、その時が一向に来そうにないというのは、ある意味で地獄だ。


しかし、人間が満ちた時、それがイヤだなと思っても逃れられないのであれば、それもまた地獄なのかもしれない。


今は、ただ想像するよりない。そして、その想像こそが人間に許された自由なのかもしれない。



2010/8/17


また当てもなくうろうろと移動する。途中、牛舎と遭遇し、大量の牛と出会った。


この牛たちの管理もまたボットによって行われているのだろうか。果たしてエサは自然と入れ替わってるかのようにも見え、この世界のオートメーションを苦々しくも思う。


それでも、わいわいと人間が出て来たら活気は出て来るだろう。おそらく、その日は、そこまで遠くないだろうし。この牛舎に派遣されてくる妹だっているのかもしれない。


そう思ってる内にふと今度は野生の動物に出会いたいと思いはじめ、また山へ入ってみる事にした。いたのは、猿や鳥、虫、蝶、魚、そういった動物たちで、その動物たちとはふれあいなどというものではなく、観察の対象として距離を置く。


ヤブ蚊はぶんぶんとうるさかったが、あいかわらず私を刺す気配もなく、しかし、うるさいので、私はパチンと何匹か殺した。それ以外、動物には触れてない。


山には何の用も無さそうなので、私はすぐに下山した。自分の人生がかなり迷走しているように思えた。妹たちの誕生を今か今かと渇望していた。まだ生まれないのであろうか?やはり、また私は母様の下に戻ってみる事にする。



2010/8/16


今日も一日、音楽を聴いている。データをロードして聴いているのだが、何だか物足りない。ライヴに行きたいなと思う。しかし、この世界には人間がほとんどいないので、当然、ライヴもない。そこがさみしい。


ダンスミュージックは、一人で踊っていてもつまらない事は無いが、やはり、さみしい。しかし、唄もののダンスミュージックを聴いて思うのは、やはり、リズム的に言葉として英語との相性の方が良いのかなという事だ。英語の方が言葉が聴こえてきやすいし。日本語の場合、通常の日本語の抑揚とかなりかけ離れた感じがする。それは唄である以上、英語のものでもそうなのだけれど、その位相が日本語の場合、極端といえば極端だ。端的に英語に対する模倣性を感じる。


こうした観点から、「世界地図」や「歴史」なども割り出せるのかなと思った。私のデータの中には、何故か概ねの地図が欠如してるので文化におけるマッピングがしづらい。本屋さんにも、もちろん、地図はあったけれど、それを見ても、何が何だか理路整然とせずに、それがつながりにくい。


やはり、プレデータに無い知識を後天的に獲得するのは難しいという事だろう。しかし、それが当たり前といえば当たり前なのだし。私のような予め知識がある状態の方が不自然なのだ。つまり、私は「そこ」にも「機械」を感じて、侘しくなる。


いずれにしても、私は機械だ。しかし、実質的には人間だ。その差異を認識する時は、いつか訪れるだろうか?


私は、誰でも良いから人に会いたいなとag子たんたちを再び思い出す。この世界はあやふやで、ひどく不安定だ。それを音楽で紛らわす。音楽とは、そういうものなのかな?と何かが違っているような気もする。



2010/8/15


だれてきた。絵や本などを色々と接種しても事態は何も進まないように思えた。


そんな時は音楽を聴く。音楽は何のプレイヤーを使わなくてもプレデータの中で検索して、頭の中でそれを再生できる。


音楽には快楽が伴い、それに身体を委ねると心地よい。時には、飛び跳ねたりもするし。踊ってみたりもする。


音楽には色々な形態があり、私はとりわけダンスミュージックが好きなようだ。それも唄ものが好きだ。リズムに身を委ねながら歌詞を解釈していくと、パッと何かが開ける感じがする。


歌詞には、色々な言語があり、その全てを翻訳的に分かるが、一番しっくりくるのは日本語だ。そういえば、本も日本語で読んでたし。私は日本人という事なんだろうか。しかし、ここは機械の国だ。ここの公用語が日本語という事なんだろうか?


そのへんは全ての言語を翻訳可能だからこそ、よく分からない。そういった言語でキャッチアップされてない身体はアイデンティティーにゆらぎやすいような気がするが、だからと言って、一つの言語にすべてを委ねるのも勿体ない気がする。


なぜ世界はかくも複雑なのだろう。



2010/8/14


美術館を見つけて入って行くと色々な絵があった。本来、入館料を取るはずの施設だが、案の定、誰もいないので普通に素通りしてみた。


大きな絵をはじめて見たので、迫力があるなーと思ったが、絵の内容自体はよく分からなかった。


率直に言って、良い絵もあり悪い絵もある気がするが、ここに収蔵されてるという事は、全て何らかの基準をクリアした作品という事なのだろう。


私の期待は少し外れ、この美術館ではなかったのかなと思い、別の場所へ向かう事にした。


しかし、次に行った美術館もあまり感想は変わらなかった。だいぶ絵を見たので、そろそろ絵も飽きて来た気がする。というよりも絵の見方がさっぱり分からないので、絵の何を見ればいいのかがそもそも分からないのだ。それは映画やマンガよりひどくつまらないものに思える。



2010/8/13


色々な事が私の頭の中をすり抜ける。昨日から3冊の本を読み、10の音楽を聴いて、20枚の絵を描いた。


私は散歩しながら、そうしたインプットデータを脳内にマッピングしていき、頭の中の思考ルーティーンを再構築していく。その為には、やはり散歩なのだ。飛ばずに歩いている。


私の記憶は、ほぼ完璧と言えるので、多くのものは反復する必要がないが、音楽だけは別だ。音楽には聴けば聴く程、発見があり、そこが面白い。とりわけ唄の意味と音の補足の関係などは、もっともっと多くの曲を聴かないとそれがどういうものなのだか、よく分かってこないような気がする。


絵に関しては、抽象画やキャラクター画など、割りと写実から離れたものを描いてみたところ、ひどいなと思った。私に絵の才能は無いと思う。でも、私は生まれてこの方ほとんど絵を見てないので、そもそも絵の善し悪しが分からないように思う。


結局の話、絵というのは何を目的として描くものなのだろう?そこの所がよく分からない。


私のように正確な記述が出来る人間であれば、絵の伝達的な目標に対しては完璧であると言えるだろう。記憶もバッチリなので、そこには自信がある。にも関わらず、私は絵の才能が無いと思っている。であれば、絵の本質は伝達ではないのではないか?


画材は一つポイントだろう。画材の持つ潜在的な能力をいかに引き出せるか?抽象画を描いてみたところ、そんな意味合いもあるのかなと。あとは色彩構成の理論をプレデータからダウンロードして加味する。これで完璧なはずだが、出来上がるものがひどく平板なので、何かが足りないのだ。何が足りないのだろう?


私は、巨匠と言われる人たちの絵をひとしきり本屋で見ながら、やっぱり、こういうのは実物で見ないとダメなのかなーと思い、今度は美術館探しの旅に出て行くのであった。



2010/8/12


ボットとのやりとりで若干ぐじゅぐじゅした心を再び「自分の問題」へとシフトさせる為、本を読もうとしたが、しかし、考えてみると、それもそれでどうなのだろうか?と気が散る。


この世の中は周りとアクセスする事で問題意識が変わるのだし。それが人間にとって重要なのかもしれないなと思う。


アクセスするものは人間でなくとも何でもいいはずだ。しかし、人間と出会う経験が一番強く、そして、効率的であると思えるのは私が人間だからだろうか?


逆にいえば、その強さが災いする時もあると思う。その時にどう対処すればいいか?それを思うと私は少し怖くなってしまった。


母様の周り。空に浮かんでいた大量の球体。あれがはじけた時、世界は私の妹で満ちあふれるはずだ。その時はいつなのか?


今はまだ私は空想をもてあそび、それまでの期間によって、「自分」というものをセットアップできそうなのが良かったなという事を思う。そして、その事こそが自分の読書熱をいまは加速させてるな。という事に気づくのだった。


私は、また無数の本を読み始めた。



2010/8/11


結局のところ、お金の問題はあっさりと解決された。この世界がデータそのものならば、お金もまたデータそのものに相違ないからだ。払う必要もないというのが結論だ。


一体何の茶番だろう?これは。


お金というものは人間間の「もの」のやり取りをスムーズにするツールでしか無い。しかし、今の所、この世界に人間はほとんどいないので、お金に意味はないはずだ。そのぐらい理解する程に私の頭は勉強を重ねている。


しかしながら、では、作り上げられたこの世界が誰の手によるものなのか?問題はそこだろう。「もの」は何処からやってきたのか?


推論としては、これはデータでしか無い。「もの」の実感は私にはあるが、おそらくそれは私が機械だからで、感覚的なデータが私の身体にアクセスされた時、それを「現実である」と感じられるように複雑な補正処理が起こるだけだろう。つまり、私を作成したもの、母様が私に「もの」を錯覚させているだけではないだろうか?


現にこの世界において商品の賞味期限が切れる事は無かったし。実際、食べてみたところ、それは排泄とセットされなかった。つまり、食べたところで体内に何も入ってなかった可能性は高い。


そうしてみると、そもそも私は「それ」にお金を払う必要があるのか?という疑問さえ沸き上がる。私が「もの」にお金を支払うとすれば、それが「味」のようなエンターテインメントを伴ってるというただ一点においてであり、つまり、「実体に」ではない。


実体でないとは言え、この世界が作り上げられたからには、その労力と対価が何処かにあるべきだし。それは支払われなければならないだろう。しかし、支払おうにもこの世界はあまりに完璧すぎて、人の手をかけずとも維持されてしまうだろうし。私が働く場所すら無い。現にag子たんの一家は働いていたか?彼女たちはどのようにして食べているのか?


世界のルールの一つに、そもそもの世界には対価はいらないという事があるだろう。そこから狩猟や採取したものに対しては、貨幣の見返りを送る必要は無いのだ。


宗教的な意味では、そこに供物を捧げ、世界に感謝するといった場合はあるだろう。しかし、貨幣は人間のやり取りにおけるツールなので、あくま対価は人為的なものに払われるべきだ。しかし、この世界に人為は無い。か、むしろ、この世界は人為そのものだ。


この世界が人為だとして、このボットの運営そのものすら、それは誰のものなのだか、よく分からない。母様だろうか?だったら、親が子にお金を請求しているという事になる。それはあまりにひどい。そうか。本来、請求は母様に行くべきではないか?


ボットにその事を話したら、とりあえず母様に請求してみるとの旨を告げ、ボットは去っていった。


この話はこれで終わらないだろう。このへんの相関関係は世界を考える為のキーポイントではないか?と、私はボットのその対応にちょっと困惑する。私は、負債を抱え込んでるという事かもしれない。


いずれにしても、この世界における「お金」の取扱いにまつわる奇妙さには興味がある。もっと突き詰めて考えないと不味いものなのかもしれない。



2010/8/10


散歩がてら試しに絵を描いてみる。風景の絵。スケッチだ。画材屋さんに入って取って来た画用紙と鉛筆で描く。


結果どうなったかというと、ものの見事に絵が描けた。古典技法に対してひどく忠実で正確な描写の写実絵だと言えるだろう。


描いてる内にレイアウト的な引き出しをデータとして処理して、その絵はあたかも写真のように精緻でひどく奇妙な絵だ。


しかし、この奇妙さは新たな世界との結節点だと言えるだろう。何故なら、この絵が良いかどうかは自分にはサッパリ分からないし。そうした批評性も調べれば無限に出て来て、では、この絵がダメだとされる場合、それは、どの点においてダメかという事の決定と、その改善方法があまりにも千差万別だからだ。


であるならば、この正確さは自分の「個性」という事にすべきだろうか?


しかし、それが個性なら、それはひどく無味乾燥な個性でイヤだなと思う。元より、私は機械である。機械のように正確な絵が描けたからと言って、それは当たり前の事実なのであり、むしろ、それこそが私に「機械」を意識させるものとして、嫌悪的でもあるのだ。


しかし、私は、そういう絵を描いてしまったのである。


fg-1の物語1


この絵を描いたあと、私の元に取り立て用のボットが来た。そういえば、今日までにお金を支払わないとという事があった事を思い出す。海の家での水着代やこの絵の画材代なども追加の請求書を出している。


私にはお金がない。さて、どうなるんだろう。



2010/8/09


哲学書は難しくて読めない。というよりも自明の事を一人の人間の詳細な解析によって言語置換しているので、その思考ルートを追認する事が重要だなと思った。


ある意味では、これは絵画を模写するようなものだろうか?そうだとすると、絵画もまた面白そうだなと思う。


こうやって思考がつながっていくと、やりたい事が増えて、生きる事に貪欲になってくる気がする。それは良い傾向と言えるだろう。


但し、同時にそれは自分にちっぽけさを促すので、不安定さも創り出すような気がしている。いちいちの行動には、こういう二律背反がすべからく存在している感じがして、それが人生におけるキーポイントのような気がする。


こういう二律背反を人は抱えるとして、同時に単線的な行動を取るとそれが消化されるのではないか?と何となく思いついている。


例えば、散歩などは単線的な行動が先を促すので二律背反の統合に一役を買うようだ。


こういう行動による作用は意外と記述化しづらいらしく、プレデータ上では処理できないので、その部分で世の中は面白いなーと思える。そして、そういう余地が残ってた事を素直に嬉しく感じる。



2010/8/08


本は楽しかったが、一日動かないで本ばかり読んでいると不健全かなと思うので、今日は少し外に出てみる事にした。散歩して情報を集め、世界への信頼を高めないといけない。


いずれにせよ、情報は言語的なコードに転換されないと処理できないが、体感的には、外部情報を皮膚レベルで接種する事も可能だろう。そこから転換して言語コード化した情報は何故だか私に「確からしさ」をもたらし、それはそれで、それもまた危険かな?と私に思わせた。


冷静に突き詰めると、一体、この世界において何を信頼すれば良いのかがよく分からない。プレデータから哲学的なデータを引き出してみるが、そのどれもが難しすぎて腑に落ちないし。結局は答えが出てないようにも思った。


所詮、人が考える事には限界がある。という事かもしれない。


しかし、それでも私が世界の真理を掴みたいなと何故だか思っているし。そういう事に身を傾ける瞬間もまた「確からしさ」が私を包むような気もしている。


目的。


いずれにしても、私に必要なのは、それだろう。設定として、世界への信頼を何処に設定すべきかという事を考えるのが当面の目的でも良いのではないだろうか。それはハードルが高すぎるだろうか?


しかし、そういう事に対して本を読むという事は重要な行為だし。私は、本屋に戻って、今度は哲学書を中心に読んでみる事にした。歩くと、少し頭の回転の仕方が変わる気がする。それもまた注目すべき作用のポイントだなと私は思う。



2010/8/07


昨日から夢中になって本を読んでいる。本を読むと色々な事が体感してるかのように楽しめるので、その体験が不思議だ。


最初は小説中心に読んでいたが、徐々に絵本やマンガなどを読み出し、そちらの方が読みやすく面白いものも多いのかなと気づいた。


いずれにしても、今のところ、私は「物語」に興味があるようだ。物語の途中に出て来る舞台などをプレデータで補正していけば、大体の事は分かるようになるし。それがもっと詳細になるように感じる。


しかし、物語はウソなので、一定の距離を創っておかないと危険かなともちょっと思った。いずれにしても、本の中は架空の世界なので、それが故の面白さと、それが故の物足りなさが同居していて、そこにたゆたうイマジネーションラインの位相の線引きもまた再構築的で面白いのだ。


私は、絵本や児童文学には、真実が分かりやすく書いてあるし。ノンフィクションには、ウソが多く書いてあると思った。しかし、そのどちらも面白いし。そもそも、その真偽の設定を見極める為のプレデータも自分で獲得したものではないので、本当に信頼できるのかあやふやだなと思う。


してみると、私は、ひどくあやふやな人間なのだなーと改めて自分の不安定さに気づき、少しまた存在のゆらぎのようなものを感じた。



2010/8/06


とある大型の本屋で一日を過ごす。本屋には本がたくさんあり、人がいなくても楽しめるので助かる。むしろ人がいない方が落ち着けるだろう。


文学の幾つかは頭の中にプレインストールされているが、それと本を手に取って読む事は少し違う気がする。


人間は完璧な記憶をしたとしても、デバイスが無ければ、何か空を切ってる感じで不安になるものなのかもしれない。私たちのハイパフォーマンスな脳はそれを最小限に押しとどめるけど、しかし、確定した文字として読むのと記憶を辿って読む行為は明らかにその確信度が違う気がしている。


色々な本を読んでいるが「家」にまつわる本を主に読み、色々な人間の生活を空想の中で噛みしめている。


本を読む行為は「一人」でも出来るので、私にとってピッタリだと思った。幸い、ここには膨大な量の本があり、何日いても飽きる事は無さそうだなと思った。思いがけず、金脈を見つけた感じだ。



2010/8/05


潮風が肌にべたつくのが気になったので、海水浴客のために設置されてあるシャワーがあるのを思い出し、そこに向かった。海水浴客のため、と言っても、今の所、ここに海水浴客が来る事は無いだろう。私は一人そこで肌に付着した塩分や泥、汗といったものを流す。いままで何も気にならなかった私だが、塩分の付着には多少、何かの気にはなるらしい。


私は、シャワーを浴びる為に生まれてこの方ずっと着ていた服を脱ぎ、温水の出る方にシャワーの蛇口をひねった。最初は冷水が流れて来たが、10秒もしたら、きちんと温水が出て来たのでほっと一安心する。


こうした情報はプレデータの方から自動的にダウンロードされてくる。故に「はじめての行動」でもはじめてらしくなく行動する事が出来るが、感情的には、きちんと「はじめて」を認知するので、それが楽しい。温水にあたるのは気持ちよく、きちんと温度を感知するのだなと思った。しかし、ものすごく熱くしたりしてみても、それに対する耐性があったりと、そこに対する私の感知は低い。総じて、私は鈍感なのだろう。これは危険な事ではないだろうか?逞しいとも言えるだろうか?


身体を洗いながら改めて自分の肌をまじまじと見つめていると日焼けのあとがくっきりとついていて、あ、日焼けしてるんだなーなどと思った。


私の身体は機械なのだが、それは機械らしくなく弾力もあり、外界の物質とある程度は調和してキチンと化学反応を起こしている。こうした調和や変化こそが「生きる」という事なのだろうが、同時に日焼けによる痛みなどは遮断されていた事にも気づき、バランスが悪い。


こうした回路の選別は本来なら母様が適切に行ってくれるのだろうが、私の場合、私が自分で行うより無い。私はシャワーを浴び終わり、また服を着ようと手に取ったが、擦り切れた服はみすぼらしく、しかも、かなり匂う事に気づき、何だかそれを着たくないなって気分が湧いて来た。こうした感情もはじめてだ。


私は、こうした気分を適切に処理するのにどうすべきなのかがよく分からないし。私は別に服を着なくても生きていけると思うし。元より他人がいないので恥ずかしさもないので、裸でそのままシャワールームから出てみた。


出てみた所、何だか落ち着かない気分がしたので、やはりまた服を着てみようと思った。でも、自分の服を手に取るとこれを着るのも気が引ける気がしたので、その前に服を洗った方が良いなとそういう順序を思いついた。


私は、裸のまま、外に出て、海の家の売店に置いてあった水着を着用してから、私の服をそのお店の前に干して、夜の砂浜で一人佇んだ。


暗闇に溶けて私が思うのは、こういう姿を他人に見られたくないなという事と、でも、他人が現れたら、それはそれで良いなとも思った。


私はうとうとしながら、ag子たんたちの事を思い出していた。あの晩、ag子たんたちとの話が盛り上がりすぎて、お風呂にも入ってなかった事を思い出していた。思えば、私はひどく匂ってただろうに。ag子たんたちも匂いに鈍感なのかしら?


ホントは臭かったのに、それを指摘するのも悪いと単に黙ってくれてたのかもしれない。でも、それだったら、お風呂勧めるだろうし。何だかとっても悪い事をしてしまった気になってきた。というよりも恥ずかしい。


私の心は意外に繊細なのかな?こうした思考が頭の中でどんどんループして、あの時ああすればよかったとかこうすればよかったというような非生産的な考えが頭を巡り出す。そのうちに私の中の何かの回路がそれを遮断して、私は眠りについた。


私は一晩寝て、起きてもう一度シャワーを浴び、身体に付着した砂などを落としてから、既に乾いた自分の服に着がえて、また旅に出る。


旅に出るとき思ったのは、旅に出ると身体も服も洗いづらいし。下着の着替えとかも持っていった方が良いのかな?とか余計な情報が私には付随するようになったという事だ。逆に言えば、今までの私は、あまりにも「そのまま」すぎた。


それは良さでもあるが、同時に悪さでもあるだろう。今後、私は身なりを綺麗にして、洋服の替えなどを欲するなら、何処か定住的なポイントがあった方が生活をやりやすいような気が私にはしてきた。それが「家」という事だろうか。



2010/8/04


海だ!!


海を見て感動して震えた。真っ青な空に広々とした地平線。視界が広く行き渡り、遮るものの無さが「世界」を感じさせる。


こうした心理効果はどのように起こるのかは分からない。私は、この寂しい世界の中で人為を求めているが、同時に人為無き世界を求めてるのかもしれない。


砂浜に降りてみると、はたしてそこには空き缶やらスナック菓子の袋といった人為のかけらたちが無造作に捨ててあって、げんなりした。しかし、もう10年も放られているような朽ちたラジカセなどを見ると、少し感動も起きる。


こうした風景は、機械の国である私たちの世界の場合、単なる設定であり、これも人為的に配置された構造物なのだという事は間違いないだろう。この海の周りに海の家はあるが、そこには人はいない。


人がいない中、焼きイカがじゅうじゅう焼かれていて、おいしそうだったので、それを一つ手にとって食べてみた。おいしい。海の涼しげな風にあたりながら、温かいものを食べると心も身体も満たされた気分になる。


しかしながら、その焼きイカも見ていると一定期間、焼けたり生になったりを繰り返し、自動でその行為が反復されていて、げんなりする。


この世界は、これだけ凝った創りをしていながら、何故そこにウソでも人間を配置しないのだろうか?


妹たちが生まれて、この世界に大量に人間が溢れたら、私たちはそこに配置され、ただイカを焼く生活をする人が現れるのかもしれない。であるなら、私たちは、そこに配置される為に生まれるとも言えるのか?


この奇妙な光景に私は何とも頭を悩ませる。そして、その悩ませた頭を一瞬でオフにさせるが如く、また海の方を見ると、その世界の広大さがしっかりと目に焼きつくのであった。


夕陽が目に眩しい。



2010/8/03


ag子たんたちがそうであったように出掛ければ世界には何かあるのかもしれない。


ここでうじうじと妹たちの誕生を待っていてもしょうがないので、また旅に出てみる事にする。今度は北へ向かう。


目的のない旅は目的がないだけに楽しくもあり、つまらなくもある。道中、似たような風景が続くと気が滅入るし。そうでない場所を見れば、たのしい。


この世界は山があって川があって、海があるらしい。海を見たいなって思った。そして、海の向こうに渡ったらどうだろうか。


そういう風に目的のない旅も目的を擬似的に設定していかないとモチベーションが湧かないなーという事も思う。ある意味では、うまく出来た仕組みだなーという事も思う。


私は旅に出たのだ。



2010/8/02


今日は一日ぼーっとしてしまった。世界には意外と驚くべき事は少なく、周りには意外と何も無いなと思う。何も無い時に無理に動く事も無いかなとも思う。


昨日の出来事と生まれて来た時の衝動を反芻し、どうして私はこうなってしまったのだろう?という事が頭を巡り出す。


空を見上げても、妹たちには何の変化もない。私は、空想以外に特にやる事が無くなってしまった。もう一度、ag子たんたちの街へ行きたいなと思った。



2010/8/01


ag子たんたちと別れた私は再び母様の元へと向かった。


夜になり、無事、元の場所に戻ったが特に変化は無く、少し私はがっかりしてしまった。


帰りの道中では、やはり頭を巡るのはag子たんたちの事で、やっぱり、人は人といられるのが幸せの道なのかなーという事を思う。


私の妹たちは、いつ生まれて来るのだろう?そもそもホントはみんな一斉に生まれてくるはずではなかったの?


生まれて来ない理由は、多分あれだ。私に欠陥があったからなのだろう。そんな気はする。私は母様との交流が切れてしまったし。何か自分に欠陥を感じなくもないからだ。


疲れてるのかな。


あんなに楽しかった昨日がまるで遠い日のように私は何故かふいに不安に襲われ気弱になってしまうのだった。



7月の日記


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