水道から蛇口をひねるように私たちは生まれる。


コードナンバーは、fg。母はΩオメガ。


母から1番目に生まれた量産型女の子。それが私。


製造ナンバー:fgー1。


何故か胸の内にある熱い想い。


まだ見ぬ少年(かれ)に会いに行く。





2010/7/31


昨日は道ばたで3時間ぐらいag子たん(ag-48をそう呼ぶようになった)と話しをしたあと、盛り上がって、そのまま家に泊めてもらい、一晩を過ごした。


その一晩も夜通しに近く、語り合って、ものすごく楽しいなーと、それはビックリする程でもあった。


会話というものをするのが、実質的に生まれてはじめてなので、会話がこんなに楽しいものかと底抜けにウキウキしたが、反面、別れはつらいなーという事も同時に思った。


ag子たんには、家族というものがいて、お姉さん、お母さん、おばあさんという4人家族でセットされていた。お父さん、おじいさんは、亡くなったという設定らしく、家には仏壇があって、みんなでそこに手を合わせてお祈りをしたりもしていた。


歳が近いので(という設定なので)お姉さんともよく話した。話して思ったのは、記号での識別は意外と面倒だという事だ。


私たち量産型女の子は記号で識別されるべきで、名前はあってはいけないという事になってる気がするが、でもやはり、名前はあった方が良いのではないかという事も思った。


とはいえ、お姉ちゃんはお姉ちゃんと家族の中ではそう呼ばれてるので、この構成のユニットだと呼称は問題にならないのかもしれないし。つまりは、それは、そういう構成のユニットしか、この世界には創られないのかもしれないとも思う。


では、一番下のag子たんが家族に何と呼ばれているか?というと、「よんちゃん」であった。なので、私も必然的にag子たんの事を最後は「よんちゃん」と呼ぶようになっていた。


4ではじまる機体ナンバーの子はどっかに他にもいるのではあろうが、そういう事もうまく考えて機体が配置されているのかもしれない。


いずれにしても、人との交流は加速度的に情報量が増すので、これは最優先したい出来事の一つだなーという事を思った。しかし、別れはすぐにやってきた。


彼女たちの母:αは、異質な機体同士が出会うのは時期尚早と見たようだ。私は排除勧告を受け、家族に迷惑をかけてもいけないので、しぶしぶそれに従った。


別れる時、よんちゃんは泣いてくれて、それが私には嬉しかった。


この感動は本来なら、もっと美しく記述したいが、私には、その技術が無い。これが機械の限界なのかもしれない。そして、私は「文学」や「唄」というものの美しさにこのあと傾倒していくようになる。世界に「文化」が必要なのは、その為なのだろう。私は、その事を学んだ。


私は、その事を学べて、すごく良かったように思う。生きる希望が湧いて来た。世界にはまだ「やるべき事」の余地がいっぱい残されているのだ。



2010/7/30


道すがら、一つ異質な感じの集落が見えた。そこは他と違って、圧倒的に高度に近代化してるように思える。瓦屋根の和風の趣きだが何かが雑然としていて、しかも、建物に異常な高度があったりする。


母様の周辺もかなり発展していると思うが、見た目に反して、そこは更に発展している感じだ。この雑然とした感じは何だろう?もしかして人がいるのかもしれない!?


そう思った私は、航路を軌道修正して、そこに降り立つ。元より私に確固とした目的は無いし。それは人生もそうだ。特にやる事のない人生の場合、道中、気ままにふらと立ち寄るのも大きなたのしみとなる。


降り立った所には果たして人がいた。


人?


違う。その姿、私との類型ではあるものの全体は2頭身から3頭身で目は大きく姿もまるっこい。これは何だろう?誰だろう?喋れるのだろうか?


「あなた誰ですか?」


と最初に言ったのは向こうの方からだった。私はflyyying girl。コードナンバー:fg-1。Ωの一番目の娘の量産型女の子です。と私は答えた。


そのような事を言ったら、「あらあなたが。」なんて声がかえってきたので、つまり、彼女は私の事を知っている?


果たしてそれは高度な機体に相違なかった。彼女も量産型女の子。


ag-48。acccoustic girl。αの48番目の娘だ。


fg-1の物語1




2010/7/29


妹たちが生まれる頃ではないだろうか?


私は、その事を思い出し、母様の側まで戻ってみる事にした。


随分、遠くまで来てしまったので、普通に飛ぶと一日では戻れるような距離でなく、しかも、今日は雨だった。


行きの道中、闇雲に動いたので、戻るにしても、頼りは標識や地形や太陽の位置だけであり、些か頼りない。


母様はどうしてもっと正確なマッピングをプレデータに埋め込まなかったのか?それが疑問だが、いずれにせよ無いものは無いので、標識が確認できるように低空で飛びつつ、来た道と違うルートで帰っていく。


ただ飛んでいるのは苦痛だ。


肉体的に疲れるというよりも退屈が身体を支配する。というよりも、これだけ飛んでも私の肉体は疲れないんだなという事を発見し、すなわち、それは私の生には変化が乏しいという事を意味する。それが「機械」という事か。


私は、やはり「人間」ではないのだ。



2010/7/28


流石にクマに会う訳にはいかないと自重するが、それでもかなり人里離れた山の方へ向かい、森の奥深くを歩いてみた。


自分は飛べるから良いにしても、ここをナビゲーション無しで歩くのはかなり危険だなと私は思った。


鳥の鳴き声、虫の羽音などがするが、基本的には静寂を感じ、ひんやりした空気の感じが心地よい。私は都市で生まれた人間だけれども、森を感じて気持ちよいというのは、人間のルーツがきっとこちらに近いからなのだろう。


しかしながら、人間の発展を見てみると海の方が重要な気もする。海。それも見てみる必要があるのかもしれない。


森の中は静寂すぎて何も起こらないといえば起こらなかった。しかし、それでも何故か幸福感が襲って来た。ここは心地よい。しかし、ここにずっといる事はひどく危険だなという予感が私にははっきりと感じられていた。


途中、上から森を見ると、ある所に湧き水が湧いていて、それを飲みたいなと思って、沢に降りた。その水を一口含むとそれはとてもひんやりとしていて、すごくおいしかった。



2010/7/27


田舎の生活は都会よりも楽しいかもしれない。それはこの国が「人のいない世界」であるが故だろう。


人の痕跡と動物の数は反比例してるような気がする。田舎がたのしいのは動物が多いからでもあるはずだ。


人間の目は動的なものを追うように出来ていると思う。それは狩猟や危機回避の為だろうけど、この人工物のあふれた世界では、その感覚を鈍化させないと疲れてしまうのも事実だ。選り分けが必要だろう。それは安心感につながる。


この地区一帯には、スズメが多いので最初は興味深かったスズメの動きはもはや追わなくなってしまった。カラスもミミズもそうだ。それらに害はないし。見ても、もう楽しくない。でも、ネコはどうしても目で追ってしまう。


アリに関しては、アリの本を読んでいたので、見ていて飽きない。アリは行動に規則性があり、しかも、穴の中の生活は未知なので、その観察はたのしそうだなと思う。本で読んだような社会生活を想像し、分担されたアリの社会を地表の行動で伺い知ろうとする。


いずれにしても、社会に順応する為には、敵とエサを選り分ける必要がありそうだ。しかし、今の所、私には敵もエサも無関係なので、それがさみしさにつながっているようにも思える。


もっと山の方に行けば、クマやイノシシといった獰猛な動物に会えるだろうか。会ったとして、それが私に危機をもたらすのだろうか。分からない。しかし、それは試してみる価値はありそうだ。


危機。


そうか。本来、生まれたばかりの人間にあり得べきそれが私には無い為に私は存在意義がある種の危機にさらされてしまっているのではないか?と思えた。しかし、それはまだ本格的なものでなく、今はまだ脳が実際を変奏させたイミテーションの危機であると言うべきだろう。


おかしな話だが、こうして私は「危機」に対する興味を増した。山、川、もっと動的で激しい場所に私は身を置く事を試さなければならない。



2010/7/26


昨日の夜、蚊に刺されるという経験をした。朝から雨が降っている。


私の場合、蚊に刺されてどうなるかというとどうにもならない。少し赤くはなるが、かゆくはない。機械なので全く影響がないらしい。それより羽音がうるさい。


都会もうるさいが、田舎もまた違った音でうるさい。世界というのは随分うるさいものだというべきか、或いは夏という季節のせいなのか。いずれにしても、田舎には生物がよくいるといった印象だ。蝉と鳥の声は一際大きい。


雨はそういった音をかき消す。それは雨の音の方が大きいからだ。風の音ももちろん大きい。ゴウという音が私の中の自律神経系を刺激する。


傘というものは差してない。私の場合、雨に濡れてどうなるかというとどうにもなってない。機械とはいえ完全防水で全く支障はないらしい。しかし、これが10年、20年経った時どうなんだろう?そもそもシャワーも浴びられるのであるから雨に問題あるわけもないか。


「田舎」のイメージが実際にはデータと違いを見せているように、私もまたプレデータにある「機械」のイメージとは随分違うような気がする。やはり、私は「人間」なのだ。そう思って生きた方がスムーズであるように思う。であれば、それは「人間」なのだろう。「人間」でありたいと思い込んでるのかもしれない。



2010/7/25


田舎らしき所は稲の穂で青々としていて、周りには民家がぽつぽつとある。


農道にはコンクリートが敷かれており、田舎と言うには近代化されてる場所というべきだろうか。本当の田舎ではないのかもしれない。


標識や看板などから人間の生きている痕跡だけはあるが、それは痕跡だけであって、やはり、人間はいない。


コンビニに似たものもあるが、そこにある商品は古く、あまり手を出したいものではないなーと思った。商品をよく見ると何点か消費期限切れのものが置いてある。このへんは、これでもいいのだろうか。


そこは街といえば街だろう。店とも家ともつかない形態の家々が並ぶ通りは、形態的には都市の繁華街と何ら変わりのないもののようにも思う。逆に言うと、敷地面積とデザイン、商品の力は強いなと思う。ここには商品に魅力はない。別の意味では、魅力があるとも言えるだろう。


いずれにせよ、結局、最初に目についたのがお店であり、商品であった点で、私も女の子だなーというような事を思う。これは女の子の傾向であるとデータにあったので、そう思ったが、しかし、これに関しては個体差もあるだろう。ただ、私の妹たちは全て私のコピーになるはずなので、姉妹全ては同傾向の嗜好を持つはずだ。


そうこうしてる内に、開け放たれた店の中にネコが入ったり出たりしている事に気づいた。毛並みは汚く、しかし、ネコ自体はかわいい。かわいいものが好きなのも女の子であるが故だろうか。


かわいいので、少しネコを追ってみた。ネコは、街の隙間を巧みに探し出し、私を見知らぬ場所へと誘う。こういう交流がたまらなくたのしく、それこそが生だと私は思えた。


やがて、ネコは魚屋さんへと辿り着き、そこの貧弱な品揃えの中からイワシを一つくわえて、またやがて別の場所へと旅立っていった。


私は、ネコに飽きて、逆にその魚たちに興味が湧く。この魚もコンビニの食べ物のように賞味期限によって、入れ替わったりするのだろうか?という興味。


じっと見ていたら、はたして、それは変わったように見えた。少し古くなったかな?と見えていた魚は0時を境に鱗のきらめきが変わったようにも思えた。しかし、消費期限はそこに表示されてないので、それが本当に変わったかどうかはよく分からない。本当に変わったのだろうか?私は魚に鼻を近づけ匂いをかいでみた。しかし、前がどうだったか確かめてないので、それが違ってるのかどうなのか分からない。


そうか。本来「ちがい」は視覚のみならず、嗅覚や味覚、感覚を使って、自ら知るべき情報なのだ。しかし、私はその方法を知らない。それは私がまだ未熟だからだろう。


私は存在をデータに規定されすぎてる。それは私が機械だからだろうか?それとも、この世界が「そう」だからなのだろうか?いずれにせよ、私はまだ未熟で世界はデータによる把握だけでは限界があるようにも思った。



2010/7/24


飛ぶ速度を速めたり遅めたり、ひどく些細な事で日常のたのしみを創り、暇をつぶしていく。生まれて間もなくして、そんな事が日常なのだという事を私は経験的に知ってしまっている。


データにある子供、赤ん坊は、そのようには経験していかないはずなので、やはり、機械は機械。私は人間では無いという事なのだろう。


しかし、ここは機械の国。ここでは、その「人間」自体、存在しないのだから、私は私自身と私自身と同等の構造を持った存在を人間という風に認識したとしても、さして問題は無いはずだ。


実際問題、私は人間である。人間というデータをロードした時の特徴にほとんど全てが合致するし。プレデータの方からも「私は人間である」と指令のような情報伝達が流入する。


もちろん、データの扱いなどの部分には、人間らしくない部分もあるのだけど、やっぱり、私は人間だとしか言いようの無い人間だ。


経験は最優先事項として「それ」を私に現実として規定させるが、実際問題、経験はウソをつく事もあると今の私は経験により、それを疑っている。この二律背反。それこそが人生だとも言えるだろうか。


人生の謎は深い。しかし、その謎は解かなくても全く問題のない謎なので、今はただ放っておけばいいのだという事も同時に思う。こんな事を考えるのは私の頭が結局は暇だからなのだろう。


私は、一夜、飛び続けて。田舎らしき所へ出た。



2010/7/23


「田舎」と言っても、データとしてインプットされているだけで、それが何処にあるのかはよく分からない。この世界の見取り図、つまり、地図というものが何故かプレデータの中で不完全のように思えるのは何か意味があるのだろうか?


情報の連関が情報を形作り、経験が世界をマッピング可能にしていくのだろう。そういう事は生まれて間もないながらも朧げに感じてはいる。人生とは、つまり、そのようなマッピングの為に存在しているという事だろうか?


情報の不完全性は、ある意味では、生きる糧になっているとは言えるだろう。私のようにただじっとしているだけで生きられる存在には尚更だ。


しかし、その不完全性を埋める作業と手足を動かす作業というのをリンクさせていかないと結局の所、体感情報のリアリティーにおいて、情報の確からしさが生まれていかないような気はする。つまり、結局は人生は「動く」しか無いのだ。


それなので、私は闇雲に田舎を探す旅に出た。気ままにゆっくりと空を飛びつつ、流れる雲さえも演算に入れるのだ。それは「目的」を得た喜びでもあった。意外だった。



2010/7/22


移動の方法を記述してみる。移動に関しては当たり前のように飛んでいたが、小説や歌詞を読む限り、人間が空を飛ぶのは、どうも当たり前ではないらしい。つまり、人間は飛べないようだ。それは前に書いた通り、物理的法則に反する。


しかしながら、私が飛んでいる事に対して、私は自明である。なので、人間は、少なくとも、量産型女の子は飛べるという事になる。但し、私がどのように飛べるかに関しては、私は自明ではない。なので、それを記述してみる。


まず速度だ。通常、私は時速20km程度で飛んでいるように思うが、最高速を出せば、もっとかなり速く飛べるような気がする。気がするだけでは何なので、試してみたが、おそらく100km程度は出たのではないか。計る術がないので正確な時速は分からないが。


基本的に、最高速は肉体的に負担がかかるので、そう長くは維持できない。せいぜい5分という所ではないだろうか。これは試していない。1分も飛べば、それでも肉体がきついので、それを試す気は流石に無いからだ。


しかしながら、スピードを出して分かったのは、スピードを出すのはたのしいという事だ。


私には、周りに人もなく、会話も無く、食べる事も排泄する事もオプションで、人生にめりはりがないので、こうしてスピードを出すのは身体に負荷がかかって良いのかもしれない。


もしかしたら、こういう怠惰な日々が続けば、私は自傷に走るのだろうか?


そういう日々もあり得るなと思ったが、そうならないように何かとっかかりのある接続点が欲しいなという事も同時に思った。私にはコントロールが必要だ。何の?「世界」との接続の。


もしかしたら、「都市」にいる事がいけないのかもしれない。家でも部屋でもなく、もっと広い世界を探求できるというのに何故、私は都市にこだわるのだろう。なので、私は「田舎」に行く事を思いついた。虫も動物も大量にいるような、そういう鬱陶しそうな場所へ行く事で何かが変わるかもしれない。



2010/7/21


唄を次々とプレデータからロードして唄う。唄は実際に唄うと思いがけない情報を私にもたらしたりするから面白い。反復に意味がある芸術だなと、ふと思った。


私の中に潜在するデータが私を規定しているのは自明だが、それは歴史の連なりに私が身を委ねざるを得ない事の証明だろう。では、歴史が無かった時の人間は一体全体、何を持って生きていたのだろう?単なる本能だろうか?虫みたいな。


昔の人間は、データのロードではなくて、会話のやり取りのみで時代を超えた伝承を可能にしていたという話もプレデータにインストールしてある。人間の一生が80年だとして、当時はもっと短く30年ぐらいだとしても、それでも30年という長い年月を言葉だけで伝承していくのは拙いだろう。物忘れの扱いはどうするのだろうか?


とはいえ、そんな事も出来るんだ。と別の意味で、その超能力的な行為に感心したりもする。もっとも、そんな人間がホントにこの世に存在したかどうかはあやしいが。


私の周りには全く人間がいないし。いたとしても、そんな伝承の方法はめんどくさすぎて、やる気のかけらも起こらないだろう。プレデータには色々な情報が含まれているが、実際とあまりにも違う情報が多いので戸惑う。


それはそれとして、早く妹たちが生まれないかな。


そういえば、母様は喋れないのだろうか?母様が喋らないという事には何か秘密があるような気がする。それは「世界のはじめ」に関わるような、そんなような事に思えてならない。どうだろうか?今はただただ人恋しく、そして、もっと経験が欲しい。



2010/7/20


請求書の支払いを命じる取り立て用のボットが来た。ボットというのは、世界を管理する為に母様の放った小型機械であるが、そのボットを今日はじめて見た。へ〜。こんなのがいるんだ。


外観はかわいい。30cmぐらいの球体でまるっこい身なりをしてるので、取り立てられても何の迫力も無い。元より私にはお金が無いし。「払えません」と言ったら、じゃあ、8月10日までにお支払いしてくださいという紙を吐いて、私に手渡した。


10日か。その日までにお金創らないといけないのかな?でも、なんで10日なんだろう?その日までに払えないとどうなるのだろう?


そういえば、私はボットに出会う事で久々に声を出したなぁという事を思い出す。会話だ。会話がしたい。私は会話に飢えている。そういう事も思った。


しかし、この世界に人はいないので、会話はなかなか出来そうも無い。なので、少なくとも、声を出すという事を積極的にやってみようという事を私は思いついた。なので、頭の中からダウンロードした曲を軽くそっと唄ってみた。カントリーロードという曲だった。



2010/7/19


小説を読んでいる。小説は面白い。これを読んでると世界の秘密が少し分かった気になる。今は蟻の本を読み終えて、タナトノートという作品を読んでいる。


小説はプレデータとして脳内にインプットされている。それをデータとしてダウンロード出来るので、一瞬にして読む事も可能だが、今は目をつむって割りと時間をかけて読んでいる。


娯楽。という事だろう。


一日は意外に長く、何かをやる事に時間をかけないと意外とすぐに飽きてしまう。しかし、生まれて間もないのに、やる事が思いのほか思いつかず、この先が不安だ。それは自分が一人でいるせいで、やる気が何も駆動していかないせいではないか?という仮説を立ててみた。


しかし、この世界でホントに自分は一人ぼっちなのだろうか?


そもそも小説というのは、人の書いた文物であり、私が一人であるというのはおかしい。母様はこれらのデータを何処で仕入れて来たのだろう。


世界にはまだ分からない事だらけだ。だから、世界はまだかろうじて面白いのだと言えるし。自分のやる事は当面の間それ以外、考えられずに消耗する。



2010/7/18


この世界がどうなってるかのデータが意外と少ない事に気づく。そもそもデータの中に「はじまり」の仕組みがカットされている。おそらく、このデータを探すのが色々な事の鍵になるのだろう。


しかし、こうも思う。このデータがセットされてしまうと人間が駆動しなくなるので、これはカットされてるのではないかと。そうだろうか?


その可能性はあるように思う。そもそも母様は何で出来たのか?誰が生んだのか?


その因果を知ってしまえば、母への尊厳は維持されず、時系列は狂ってしまうだろう。


世界は並列なのか否か。それすらも実際には分からないが、体感としては、世界は線的に時系列上に進んでいく。



2010/7/17


今日は何も記述する気が起きない。そんな日もある。体内の諸機能が機能不全に陥ったかのようで、生まれて10日過ぎ、こんな事になるとは思わなかった。


世界は圧倒的に怖く、身の内に迫って来る。何が怖いのだろう?分からない。でも、何かが身の内に迫って来てるのは事実だ。この世界は分からない。


あ、そうか。多分、その事が怖いのだ。この怖さを克服する為には「世界」を知らなければならない。ここから私の世界を探す旅がはじまる。



2010/7/16


請求書を受け取ったものの、この支払いをどうすればいいかという解はない。取り立ての来ない債務は無いも同然といった感覚に陥る。


私の好きだったコンビニは無くなったけど、世界には色々なお店があり、私はそこで色々なものを物色しはじめた。物色しはじめてみると、コンビニはいかにも世界が狭く、世の中には、よくもまあこれだけという品揃えの商品がウインドウに並んでいる。


ここは「都市」という所なんだろう。人の住む場所というよりは、お店が立ち並び、商品がそこでは主役のように存在しているのだ。


とは言え、元より、この世界に人間は私しかいない。妹たちは、まだ生まれないのだろうか。一人は圧倒的に寂しく、生まれたばかりの私は早くも存在意義の喪失に悩まされていた。



2010/7/15


不安から来る虚脱感が私を動かさない。生まれて8日目にして、ようやく止まる事を覚えた。


コンビニは居心地がよく、お菓子の棚を背もたれに床に座って地べたに足を伸ばすのが好きだ。後ろには、手を伸ばせば、お菓子があって、今もさりげなくうまい棒のソース味を手に取り、それを食べようとしている。お菓子は何よりもおいしく、私の欲望を満たす。生まれたばかりの私は、まだ細かな味の差違を検知出来ずに大雑把な味の違いを必要とするのだろう。そんな欲望にようやく気づきはじめる。


ここにいると、この世界には何でもあって、ここに安住すれば、それで良いと思えて来るから不思議だ。しかし、私のそんな観念を察したか、コンビニは突如として消え、代わりに今まで私が食べたものの請求書が残されていた。



2010/7/14


生まれてから一週間が過ぎた。色々と記述したい事があるけど、記述の仕方が追いつかない。


今日は記述の仕方を書く。日記の記述は気が向いた時に脳内で行う。脳内で一日を振り返って、今日か昨日にあった事をそれっぽく思いついた順に書く。


文章の書き方はまるで教わってないので適当だ。しかし、ある程度構成したら、フローからストックメモリーの方にデータを移して、そこに一定期間ストックしておく事になる。


但し、まだログが一定期間を過ぎてないので、ログがそれを過ぎたらどのようになるかは分からない。おそらく消えるのだろうけど、これは日にちというよりも量に関係するかもしれず、いずれにしても、ログはある程度の時期が来れば、だんだん消えていくのだろう。


その消えたデータが何処に行くのかは分からない。私の頭の中に残っているのかもしれないし。本来は母様の方にデータがストックされていくはずだ。


私は母様とのデータが断絶する事でひどく不安定な存在となっている。その不安定さが不安につながり、私の存在の契機をその流動性と共に何故かゆるがす。



2010/7/13


コンビニを拠点に色々と活動してみる事にした。このコンビニの中には色々なものがあり、つまり、それは外部情報という事になるだろう。


お金もないのに、そこにある商品を片っ端から手に取る事には罪悪感があるが、元より誰もいないので、その罪悪感のリミッターはカンタンに外れてしまった。


カンタンに外れるんだ。


それは、こわいなと少し思うけど、そもそもリミッターを外さない為の学習をまるでしてないので、起動した欲望をなかなか止める事が出来ないのも無理からぬ事ではあったように思う。


私はまだ子供なのだ。


食べ物は接種に限界があるらしく、片っ端から食べてみたが、ある程度でリミッターが降りて来て、お腹も苦しくなってくる。排泄に関しては、何も起動せず、一体、食べたものはどうなっているのだろうか?と我ながら自分の身体を不審に思い出す。


つまりは、こういう事なのだろう。私にとって食べる事にまるで意味はない。と。


この推論を元に、私はむしろ思いっきり食べる事を心がけ、空腹のリミッターも外そうとしたが、それは痛みを伴うので、なかなか巧くはいかなかった。食べる事もまた難しいなとその時感じた。


プレデータによるとコンビニの食事はあまり健康によくなく、そして、その食品には賞味期限というものがあるらしい。その賞味期限は誰が管理してるのか分からないが、ずっと見ていたら、午前0時、期限切れのおにぎりの表示の賞味期限の日にちがぱちっと書き換えられた。え?そういうもんなんだ?


多分ホントはちがう。プレデータの情報と目の前の情報はまるで違うので、だから、私はその事に驚くはずだ。何なんだろう?これは。このおにぎりは日にちだけ変わっていて、中身は変わっていないのだろうか?


そう思って、少し食べてみたら、やはり、それはいつもより新鮮な味がした。つまり、おそらくは、おにぎり自体が変わったのだ。なるほど。コンビニというものは、ここまでオートメーションなんだ。私は、その事にすっかり感心してから、ちょっとの間だけ、その場で睡眠をしてみた。特に睡眠はしなくても良いらしいが、そういうデータがロードされてくるので気が向けば眠るという感じだ。



2010/07/12


コンビニからC1000と書いてある黄色い瓶を手に取り飲み干す。お金は持ってないし。何処で払うか分からないので、とりあえず、その場で飲み干す。のどごしに刺激が伝わり、それが「引っかかる」。体内に異物が混入するとそれが気持ち良いのか悪いのか分からないが、とにかく「ひっかかる」ので、同じ事をもう一度したくなり、もう一本同じものを飲み干した。一度目より少し刺激が和らぐ。


他のものを飲んだら、どんな味がするだろう?そうは思うけれど、お金もないし。とりあえず今は試すのをやめておく。母とつながっていれば、色々なものが活用できるのだろうか。私には、それがよく分からない。


プレデータだけでも膨大なのに、外界からデータが流入してくると頭の中が本当に混乱してしまう。


プレデータのロードは割りと適切に自動化されてると思うけど、でも、世の中わからない事だらけなので、たまにうんうんと自分でロードを試みる。その答えがデータにあるのか無いのかすら分からないし。無くても、あれとこれとを結合すると、答えになりそうな気もするので、なんか、そんな所がヘンだ。色々な事を伝承してもらえないと世界で生きていけないのではないだろうか。そんな不安も少し胸によぎる。


不安。


この感情が量産型女の子にとって特殊である事に気づくのはもっと後の事だ。私は、少しおかしな身体を持って生まれたらしい。本当におかしいのは私の方だろうか?



2010/07/11


食べ物に関して記述してみる。西へ西へ動く中で、私は食べ物と出会った。食べ物とは、人間のエネルギー源で、すなわち、私たち(まだ、たちではないのだけど、たちとして生まれた)量産型女の子にとってもエネルギーとなる。エネルギーの流入はバランスを崩すのだけど、崩したバランスは排泄とセットで繰り返して、体内の構成要素を変えるらしい。らしい、というのは、まだ食べた事もないし。排泄した事もないからだ。


私たち機械は、食べ物を接種しなくても生きていける。では、どういうエネルギーで構成されているかというと、大気中にある何らかの成分の原子核を交互にぶつけて、その燃やした力で私たちは動く事が出来るらしい。その力の程はよく知らないし。原理の精密なデータはブラックボックスに包まれているので、私には知る事が出来ない。でも、要するに私たちは息をするだけで生きていける存在だ。


ただ、率直に言って、食べ物を摂取した方がエネルギーの変換効率が良いのではないかしら。飛んでいると、そこかしこにコンビニというものが見えて、そこには食べ物が無尽蔵に置いてある。これをお金と交換して買えば食べていいとデータは言ってるのだけど、そこには誰もいないし。そんな事も書いてないので、どうしたらいいのか分かんない。これ単純に食べちゃってもいいのかな?そもそも、なんで、こんなものがここにあるんだろう?誰が創ったの?




2010/07/10


昨日からずっと空を飛び続けている。西へ西へ。何の当てもなく、世界の風景を眺め続ける。データの流入は以前として私の頭を悩ませる。しかし、その悩みこそが楽しみだという気もするし。それを解消しようとする方法論探しはたのしい。


世界というのは、こういう二律背反がよくあると気づいた。世界は大まかに一定の質量を保つというような法則をニュートンという人が発見したという事はプレデータに保存してあるが、その法則もまた世界の誤差に過ぎないように思う。現に私は「その法則」に反して、飛び続けている。何で?


私の身体は、構造的には飛べないのではないかと思う。今までのデータダウンロードからは私の身体を肯定する解は得られない。そもそも「はじまり」って何?どう説明をつければいいんだろう?分かんない。でも、存在してるし。世界は動くと未知のものに溢れる。それはすごく疲れる行為で疲労をはじめて感じてきた。そろそろ止まりたくなってくる。そういう欲望がふいに生起する。



2010/07/09


漠然と生きている。生きられる。生きる事が意外に難しくなかった。そうなのか。この世界はそうなのか。 「世界」は面白くて、アクセスすれば、心が躍動するけど、そうでなくても生きられる事に気づいた。これは私が機械故なのだろう。そして、この世界は「そのように」構成されている。


その意味で「生」とは、気づきかもしれない。色々な事に気づくと心がちょっと躍動する。


それは止まっていても、動いていても、その都度やった事がない事が出て来るので、それに新鮮に驚ける。


これに新鮮に驚けなくなる日は来るだろうか?


来るのかもしれない。データは膨大で底なしだけれども、あるパターンにハマっていくと陳腐化するような気もする。今はまだ私の頭はものすごい勢いで情報処理をしてるけど、これが停滞した時どうなるのか?疑問は尽きない。


しかし、今はまだその疑問に答える必要をまるで感じないのも事実だ。いま見る景色、空、雲、塔、蝶、たんぽぽ、虫の羽音、陽光、陰、そして、遠く見える母オメガとその周りを取り囲む球体たち。


あれが妹たちなんだな。


妹が生まれて来るのが心底たのしみだ。でも、その前に私はこの場を少し離れてみようと思いたち、そっと西へ西へ向かってみる。私には、色々な実験が必要だ。




2010/07/08


母と遮断された私は、母からもらったデータを頼りに何とか生きる事が出来そうだ。生きる方法は母からの贈り物の如く、プレデータとして私にインプットされている。


着用するもの、つまり、洋服というものは替えられるらしい。脱ぐ事すら出来るらしい。しかし、今はまだそのままでいる。洋服というものの存在意義まではプレデータから検索できない。裸ではダメなのか?プレデータは膨大で頭の処理が追いつかない。私は、体内も世界だ、と驚く。


洋服の在処、デザイン、髪をとかす櫛、ドライヤー、シャワー。そういった情報の確認が先ず検索しやすい。膨大なデータを辿って、大体、一致する事を辿ると、そういう情報はパーソナルフォルダーに一通り入っている事に気づいた。


パーソナルフォルダーは私の固有性を伝える情報だそうだ。人間は個人で成り立っているらしいので、その情報を固有化しないといけないらしい。なんだか、ややこしい。


「人間」と言っても、私は機械の部類に属する。しかも、部類と言っても、私のいる場所には、機械の人間しかいないらしい。「世界って、ややこしいのね。」となんかの小説の一節がふいにプレデータベースからロードされる。小説のロードは断片的にしか行えないようにロックがかかっていて、小説の全体を「思い出す」には、その小説を探し当て、読まなければいけないらしい。ややこしい。世界って、ややこしいのね。


そうしたデータの流入と停滞を終えて、私は日常への適応を何らか模索していかなければならない。それは迅速にやらなければならない。小説なんて読んでる場合ではないのだ。しかし、小説は生きるに必要な情報を与えてもくれそうだ。あとで大量に読もう(ロードしよう)。


生きられる。っていう事にそもそも驚く。生まれて2日目。私は、何なのか?と思う。何なのか?の言葉は簡単にダウンロードされてこない。それも探索すべきものなのだろうか?とりあえず、生活に必要なさそうだな。と直感で切り捨ててみる。


世界はゆらいでいるので、そのまま立っただけでは存在し続けられない。細胞は生まれ変わり、エネルギーの充填によって、一定程度、その体内の構成要素は変わるようだ。この配分に適応せねばならない。これが最優先。


私は機械なので、体型その他はあまり変えられないとパーソナルフォルダーには記述されている。しかし、その調整は私が行わなければならないので、その処方通りにやらなかったら、どうなるのだろう?わからない。あとで試してみよう。


必要なものとはいえ、体内へ体外の構成物を過剰に流入すると混乱を招くので、その調整をするようにあらかじめ身体が要請している。このへんの仕組みは詳しくは知らない。本来なら母が管理して、その範疇で接種を繰り返すのが通常なのだろう。生まれて2日目。確実に気づくのは私は「バランスが悪い」という事だ。


私は本来あり得べき姿で生まれたかどうかすら不安で、本来は私は母との経路が切断されてはならない存在だ。


不安。


私の体内には、ゆらぎがある。その存在をゆっくりと確認すると心臓の鼓動が微妙にずれて息が荒くなる。これは余りよくない傾向。これは補正しなければならない。しかし、しなければならないが、そのデータは体内に見つからないし。参照項になるものも周りに何もない。


本。というものが何処かにはある。


妹たちはこれから生まれてくる。


母へのアクセスは失敗し続ける。


こうして、私は、私の生きる時の条件の幾つかを適応の為に呑んでいかねばならないのだろう。そして、私は世界に放り出される。しかし、その状況こそが圧倒的に「是」だとも思う。そう。生きなければならない。



2010/07/07

fg-1の物語1


私を包む球体が突如としてはじけ、周りの情報が猛烈な勢いで体内に浸食する。あまりの事に自我が揺らぎ、私は空に浮きながら、必死に身を丸め、体内に外界が流入していく様をやり過ごそうと歯を食いしばる。

母の名は、オメガ。私の名は、fg-1。コードナンバー:fg-1。Ωの娘:flyyying girlの一号機。私は機械であり、同時に有機体でもある。私には、いずれ妹が無数に出来る。空には、まだたくさんの球体が浮いている。

破裂したのは私だけであるらしい。他の破裂音は聞こえてこない。目は、まだ開けられない。球体の中から見ていた風景と実際に体感する風景の違いが恐ろしい程、身に迫る。

母は、まだ他の子を産まないという事だろう。私は、実験体であると考える。考える動作。これもまた未知の体験であり、加速度的に身体の情報量が変わっていく。目はまだ開けられない。開けたい欲求を吐き気と身の内の轟音が抑える。

身の内の轟音は、ゆらぎだ。ゆらぎこそ、生命の証。球体の中が恋しいと思いつつも、もうそこには戻れないのを痛い程、感じる。声もまだ挙げられない。歯を食いしばっているから。

母の思念がまだダイレクトに伝わって来る。母と私は、まだ切れてないのだろう。何らかの情報伝達。私の痛みが母に伝わり、それが母に次の子の生誕を躊躇させているのかもしれない。

母は、哀しんでいるようだ。私は、哀しまれる生命だという事か。ゆらぎが収まらない。

それにしても、空気の質感のなんと重い事か。風のゆらぐこの世界で安定を得る事を思うと、この先が不安に思える。一向にゆらぎが収まらない。ダメだ。



うわああああああああああああああああああああああああああああああああ

試しに声を挙げてみた。すっきりした。アウトプット。そうか。ゆらぎは、外界に発して収まる。私と外界がリンクし適度に中和される事で、存在が保てる契機が見えて来た。その時、ゆっくりと目を開ける。


うわ!

今度は、思わず叫んだ。世界はすごい!世界はすごい!世界はすごい!世界を直視した自分の眼からは突如として涙が猛烈に溢れ出す。声がわんわんと溢れ出す。泣き叫ぶ。

私は生まれた!私は生まれた!私は生まれた!私は生まれた!

この事実を、もう世界は変えられない。世界は私を肯定せざるを得ない。流入しまくる情報量が未だ私の体内を改変していく。母の名はオメガ。母の声はもう聞こえない。母と私が突如としてぶつりと切れた。私は、この日、世界に放り出された。やった!今はまだ未知の世界が面白くてしょうがない。この先出会う様々な困難を今はまだ予測できずにいる。しかし、こうして私の生は、はじまった。それは祝福の日である。



戻る